NVCを「共感的コミュニケーション」と呼ばない方が良いのではないでしょうか
NVC(Nonviolent Communication)は、日本語で「共感的コミュニケーション」または「共感コミュニケーション」と呼ばれる場合があります。
でも、その呼び方はNVCをよく知らない人に誤解を招く恐れがあるので使わない方が良いのではないかと考えています。
シンパシーとエンパシー
NVCのセミナーなどに参加すると「共感」と言う言葉は、ほとんどNVCイコール共感と言う感じでとても良く使われます。
そして、多くの場合「NVCの共感はシンパシー(sympathy)ではなく、エンパシー(empathy)なのだよ」と説明を受けます。
英語のわからない自分には理解が難しいので語源と意味を調べてみました。
語源英和辞典によるとこんな語源だそうです。
sympathy の『(一緒に)+(感情・苦痛)』は割りとピンと来ますが、empathyの『(中に)+(感情・苦痛)』とはどんな事なのか想像しづらく感じます。
ブレイディ みかこさんの著書「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」や「他者の靴を履く~アナーキック・エンパシーのすすめ~」で、シンパシーとエンパシーについてかなり詳しく書かれています。
「ぼくは~」の中で辞書の引用として以下のように記述されています。
また、みかこさんの考えとしてこのように記述されています。
みかこさんの中学生の息子さんがイギリスの学校でのシチズンシップ・エデュケーションの試験問題で「empathy とは何か?」との問題に『自分で誰かの靴を履いてみること』と解答して正解だったとの記述もありました。
シンパシーは自分と同じ感情や考えを持つ人に「自分も同じ」と感じることであり、エンパシーの方は自分と異なる感情や考えを持つ人の中には何があるのかを想像し理解しようとする能力・知的作業と言うことのようです。
演出家の鴻上尚史さんもエンパシーについて良く語られていて、ほぼ日刊イトイ新聞の記事がとてもわかりやすい。
『自分の嫌なことを人にするな』はシンパシー。
『自分は嫌だけど、相手は好きかもしれない』とか、『自分はうれしいけど、相手は嫌かもしれない』がエンパシーなのだそうです。
以上からすると、シンパシーとエンパシーは似ているようでかなり違っていて、方向性はむしろ逆方向の言葉なのかも知れません。
シンパシーの着眼点は他人と自分の同じところ・受け入れられることなのに対して、エンパシーは他人と自分の異なるところに着目しているようです。
共感
「共感」と言う言葉の語源も調べてみました。
千葉大学大学院人文社会科学研究科研究の精緻な報告資料が見つかりました。
それによりますと、『1885年頃に、心理学・教育学の sympathy の訳語としてつくられた言葉』だそうです。『もともとは、同情、同感と同義のものとして考えられていた』そうです。
1885年は明治18年。今(2023年)から138年前。
大昔からある漢語か何かと思ったら、割と最近訳語として作られた言葉なんですね。
と言うことは、それまで日本には、シンパシーもエンパシーも共感も、138年前までそういう概念は無かったと言うことのようです。
更に同資料によると、1980年(今から43年前)頃から empathy の訳語としての「共感」が登場し始めたのだそうです。
これにはびっくり!!
例えて言うとこんな感じでしょうか。
それまで日本には、Dog も Cat もいなかった。
1885年頃に Dog が輸入されるようになり”いぬ”と言う訳語が割り当てられた。
1980年頃に Cat も輸入されるようになった。Cat も”いぬ”と呼ばれるようになった。
そんな感じでしょうか。そりゃ当然混乱するでしょう?!
「うちの”いぬ”は泳ぎが得意だよ~♪」
「そんなバカな!”いぬ”は木登りが得意に決まってるでしょ!」
そんな会話が聞こえてきそうです。
同資料では、新聞のデータベースを検索・分析してどのように使われているかも調査しています。
『「感情」「意見」「行動」などへの「なんとなくそう思う」などの曖昧さを含んだ肯定性を表現できる言葉として』使われているそうです。
元々 sympathy の訳語=同情・同感から発展して、同意まで含めた言葉として一般的には受け入れられているようです。
カーリング女子チームの「そだねー」と言う言葉が一時流行ったことがありますが、それが「共感の力」だと言われました。
「共感」イコール「同意」と言うのが一般的な日本人の理解のようです。
ブレイディ みかこさんもこのようなエンパシーを共感と訳することの問題点を指摘しています。
NVCの中でのエンパシー
NVCの中で、エンパシーがどのように使われているかを見てみると、本の中で以下のように定義されていました。
概ねブレイディ みかこさんや鴻上尚史の説明と同じものを指しているようです。
「第8章共感をもって受け取る」の中で、エンパシーを妨げる行為として、同情する(Sympathizing)も記述されています。
これを、symapthy=共感、empathy=共感と直訳すると、
「共感を妨げる行為のひとつとして共感がある」と言う意味不明の翻訳ができあがってしまいます。
意図的に意地悪な誤訳ではありますが。。。
同音異義語と同じで、文脈から Sympathizing イコール "同情する"と判断できるからそんな事は問題にならないと言う意見もあるかと思います。
ですが「NVC(共感的コミュニケーション)」とそれだけ聞いた場合には文脈がないため「(同情・同感・同意)的コミュニケーションと誤解される恐れがあると思うのです。
まとめ
さて、長々と書きましたが、まとめると以下のような主旨になります。
シンパシーとエンパシーは似ているようでいて、かなり方向性の異なる言葉である。
シンパシーは、「自分と同じ感情や考えを持つ人」に「自分も同じ」と感じることである。
エンパシーは、「自分と異なる感情や考えを持つ人」の中には何があるのかを想像し理解しようとする能力・知的作業である。
共感は、sympathy の訳語として140年程前につくられた言葉なのに、なぜか40年程前から(かなり意味の異なる) empathy の訳語としても使われるようになってしまった。混乱を招いてしまう単語である。
日本語の共感は、一般的にシンパシーに近い「同情・同感・同意」の意味で認識されている。
なので、共感的コミュニケーションと言うと、(同情・同感・同意)的コミュニケーションと誤解されてしまう恐れがある。
以上のような理由から「NVCを「共感的コミュニケーション」とは呼ばない」方が良いのではないかと考えています。
代替案
「◯◯しない方が良い」と言うからには代替案を用意すべき(should)とのご意見もあろうかと思います。
私が NVCを知らない人に私がNVCを説明する場合はこのように伝えています。
<一言で伝える場合>
「わかりあえない」を越えるコミュニケーション
or
「わかりあえない」を越えること
<長い言葉で伝えられる場合>
「わかりあえない」を越えるコミュニケーションであり、
「わかりあえない」を越えるスキルであり、
「わかりあえない」を越える理論であり、
「わかりあえない」を越えるあり方であり、
「わかりあえない」を越えることだよ。
『「わかりあえない」を越える』は、NVCの生みの親マーシャル・B・ローゼンバーグ博士の著書「SPEAK PEACE」の翻訳本の邦題です。
『「わかりあえない」を越える』の訳者まえがきに、邦題を決めるにあたっての意見の相違、対立、そこからNVCのプロセスを辿り最終的な邦題が生まれたエピソードが記述されています。
訳者まえがきには更に「私たちの言葉で語ることを大切にしたい」という願いから、最終的な邦題が生まれ、「言葉に魂が宿った瞬間でした」と記述されています。
それは本のタイトルに「魂が宿った」だけではなく、アメリカ・英語圏で生まれたNVCを、日本の「私たちの言葉」として「私たちのもの」として形作っていくターニング・ポイントなのではないかと感じています。
「わかりあえない」を越える
NVCが私に見せてくれた”もの”を表すのにピッタリな言葉だと思っています。
長々とここまで読んでいただきありがとうございました。
ここまで読んでみて、皆さまの中にはどんなことが生き生きとしているでしょうか?
これを書くにあたっての私の中にどんな願いがあると感じたでしょうか?
コメントを聞かせていただけるとうれしいです。
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