所属している安心感
今朝Facebookを見ていたら、茂木健一郎さんの投稿を友人がシェアしているのを目にしました。
その投稿によると、「日本人はすぐに所属を語りたがる、所属こそが人間の自由を奪っている」だそうです。
「所属を語りたがる」のは実感値としてもすごく納得感があります。
自己紹介をせよと言われたら、まず大学名、もしくはサークルやゼミといった所属から話します。
それに他の人も一定程度、目の前にいる人の所属に関心があるはずです。
ではどうして人は所属を語りたがるのか。
おそらく答えの一つは、それが一番楽だからです。
「テニスサークルに所属しています」
「ラクビー部に所属しています」
「東京大学工学部に所属しています」
ここから皆さんは何を想像するでしょうか。
おそらくこれを見て個々人が心に抱く印象にそう大差はありません。
所属は(他の国の人にとってどうかは分かりませんが)日本人にとって、一つのアイデンティティであり、クレジット、つまり信用です。
銀行でお金を借りるにも、職業や大学といった「信用」が問われます。
所属している安心感は、他者から信用を受けている安心感でもあります。
しかし、こうした状況下では一度、所属を失うと大変です。
僕自身、現役で大学に落ちて一年、予備校生活を過ごした頃を思い出すと、やはり所属は大切だと感じてしまいます。
大学名でも高校名でも語れぬ、自分自身の身分への一種の不安です。
さて所属は「信用」を示していると書いてみましたが、当然、所属はすべてを語るわけではありません。
所属は一種のカテゴリーであり、物事をカテゴライズする過程で多数の例外が生まれます。
そもそも人は何かを説明するにあたって、カテゴリーでそれを説明しようとするケースが多いです。
「彼は何で頭がいいの?」
「彼は東大生だからだよ」
こういったケースでは「彼が東大に所属している」というカテゴリーを語っているのであって、厳密に理由を説明しているわけではありません。
「東大生=頭がいい」という大枠はそうかもしれませんが、これは彼自身がそうである理由としては不十分でしょう。
しかし、日常のやり取りとして、こうしたカテゴライズは楽であり、人がまず所属を語りたがるのも無理はありません。
カテゴライズは一種の思考様式として、僕らの頭の中に定着しているからです。
一方、カテゴライズや所属を過信すると本質を見誤るケースもあります。何より「所属を失う=信用の喪失、アイデンティティの消失」という現状は、確かに人の自由を奪っていると言えるのかもしれません。
「所属から人を自由にせよ」
と言うのは簡単ですが、実情はより複雑であると感じます。