「価値」のある人間になるために生きているのか?
私には、性格も趣味も、なんなら顔のパーツでさえ全てが正反対であるにも関わらず、
お互いのパズルの複雑な断面があまりにもぴったりと組み合わさる。
そんな大切な友人がいます。
そんな友人の訴えを綴ります。
「私は生まれたい、と言って産まれてきたわけではない。勝手に産まれて、気づいたから親の腕の中にいたんだけど。」
「それなのに、なんでみんなは、生まれてこれて良かった。産んでくれてありがとう。っていう思考になるのか。」
「そんなこと頼んでないんだから。」
「それで、途中まではこうやって生きなさい。って道標を与えてくれるけど、途中からは自分で考えなさいっていきなり手放すよね。」
「それなら責任を持って、死ぬまで私がどう生きていったらいいのか導いてくれよ。」
「どうやって自分で考えて生きていったら良いかの練習が不十分なのに、1人で考えろって言われても、何をどう考えたらいいのか分からない。」
「でも、どうせ親より長生きするんだから、最後まで責任もって生き方を提示し続けてくれない。」
「それなのに、なんでみんなは、自分に価値を見出そうと、必死に考えて必死に生きるの。」
「産んでくれてありがとう。っていう考えが当たり前なの?」
「本当に私の幸せのために私を産んだの?自分の幸せのための1部として私を産んだ訳ではないの?」
「それなのに当たり前に自分に価値を見いだしながら、自分を形成していこうとするみんなが分からない。」
友人の訴えの一部始終でした。
私は自分に価値を見いだすために、それなりの努力や苦労を重ねて今、とりあえず21歳までたどり着いた気がしています。
誰かを助けたい。
こんな気持ちだって、助けることで自分が必要とされている感覚になり、自分に価値を見いだすための思考、行動に繋がっているかもしれません。
誰かを喜ばせたい。
喜ばせることができる自分という人間の価値。
勉強が得意になりたい。
勉強ができ、進学校に行き…
自分というブランドの形成。
容姿が綺麗になりたい。
容姿が綺麗なことで周りから好かれる、人を惹きつける自分の魅力という付加価値。
結婚して親になりたい。
子どもに対して必要不可欠な絶対的存在へと進化。
夢を持ち、夢を成し遂げたい。
夢を追う人に対する憧れの対象になっていく。
ずっと学んで努力して、目標を見つけて、また何かに必死になって。
結局、原点に戻った時、
全てが自分に「価値」を生み出すための思考、行動であるのかもしれない。
ということを考え、
そして怖くなりました。
生まれてから死ぬまでの期間はずっと、
自分という人間の価値を作り続けながら生きる作業にすぎないのかもしれない。
という一つの結論に至ったからです。
生まれながらに価値があるだとか、
価値の尺度は人それぞれだとか、
価値でしか人間を捉えていないのはおかしいだとか、そういう次元の事ではなくて。
生きる、とは
受動的に与えられた生に対して、能動的に価値を付け加えていく作業とも言えるのかもしれない。
そこに不信と疑問を抱いた友人の考え方の角度が突き刺さり、
はっとした自分がいるのでした。
少し重い思考となりましたが
最後まで読んでくださりありがとうございました。