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脱成長と自由についての試論

産業社会にはある種の豊かさがありますが、それは物質的福利であり、それに比べ社会全体の善という点では見劣りがします。人生の生における意味や統合を回復させるために正義や自由を維持しようとする際、もし、生産における効率性、消費経済、行政の合理性をいくばくかは犠牲にするよう求められているのだとすれば、産業文明はそれを行うだけの余裕があります。

カール・ポランニー『ポランニーコレクション 経済と自由――文明の転換』筑摩書房、2015 p.47。


はじめに

 日本では、バブル経済の崩壊後、長期にわたる経済的停滞を経験しており、その間に幾度も景気刺激政策がとられたが、経済を好転させるには至っていない。一方で、世界に目を向けてみても、2008年の世界金融危機以来、世界経済の先行きは不透明さを増しつつある。そのような状況にあって、〈脱成長〉論を検討することにどのような意味があるのだろうか。

 端的にいえば、〈脱成長〉論は、金融危機や債務危機に加え、環境問題への危機感から発展してきており、これらの危機を生み出してきた経済学の構造的矛盾を克服しうる可能性を秘めていると考えられる。本稿における〈脱成長〉論については、その提唱者である、セルジュ・ラトゥーシュの議論を検討する。日本において、セルジュ・ラトゥーシュの著作と彼の〈脱成長〉論は、『経済成長なき社会発展は可能か?』(作品社、2010)の出版以来、『〈脱成長〉は、世界を変えられるか?』(作品社、2013)、『脱成長のとき』(未來社、2014)を通じて紹介されている。しかしながら、彼が提唱する〈脱成長〉論の理解は深まっているとは言いがたい状況にある。また、彼の批判は、経済成長の論理に向けられている一方で、具体的な経済社会の構想には至っていない。こうした弱みはあるものの、真剣に検討されるべき経済思想のひとつではあるだろう。

 一方で、カール・ポランニーは、日本においては1970年代から栗本慎一郎や玉野井芳郎らによって紹介されたが、どちらかといえば、ポランニーの経済人類学的な側面に関心が集まることが多く、彼の思想の全体像はそれほど注目されてこなかったといえる。しかしながら、海外ではポランニーの生誕100年にあたる1986年から2年に一度、世界の各都市で、ポランニー国際会議が開催されている。また、2012年の世界経済フォーラムにおいても、ポランニーの洞察が話題にのぼるなど、世界経済危機に際して、カール・ポランニーへの関心が増している。近年では、日本においても若森みどりらによって、ポランニーの経済思想が現代的な意味をもって再検討されるようになっている。こうした背景には、いみじくもジョセフ・スティグリッツが、ポランニーの代表的な著作である『大転換』の序文に、「あたかもポラニーが直接現代の諸問題を論じているかのように感じられる」と書いている通り、ポランニーの問題意識が現代社会の問題に関して重要な意味をもっているからである⑴。

 特に、1980年代以降には、ポランニーが批判した経済的自由主義が、新自由主義としてまたもや猛威を振るうようになっており、市場社会を批判的にとらえ、その危機を乗り越えるための視座として、ポランニーを手がかりとすることはそれほど的外れなことではない。

 以上のような背景をうけて、本論ではポランニーの自由論から倫理学としての脱成長論を検討してみたい。


〈脱成長〉論の概要

 本章では、〈脱成長〉の議論に対して若干の整理を行う。本論における〈脱成長〉論は、主としてセルジュ・ラトゥーシュの著作に依拠する。

 ラトゥーシュの著作を邦訳し、日本に紹介した中野佳裕によれば、「〈脱成長〉(décroissance)は、ラトゥーシュをはじめとするフランスやイタリアの〈ポスト開発〉論者たちを中心に提唱されている社会運動プロジェクトである」とされる(2)。また、〈脱成長〉(décroissance)という言葉は、ルーマニアの経済学者であるニコラス・ジョージェスク=レーゲンの理論における「経済成長の均衡点の縮退(declining)」のフランス語訳に由来するものであるという(3)。中野によると、フランスの〈ポスト開発〉論者は、〈脱成長〉(décroissance)を、ジョージェスク=レーゲンの著作で定義された、「経済成長の均衡点の縮退(declining)」というエントロピー経済学的な意味を超えて、政治的・倫理的な意味で使用しており、「経済成長を抜け出た状態」という意味を含んでいるという。また、ラトゥーシュは、décroissanceを、「『成長想念から解放された状態』を指すと同時に、『成長想念から抜け出るために近代産業社会の諸制度を、よりよく少なく生産し、より少なく消費するエコロジカルなものに転換していくプロセス』という社会運動としての意味も内包している」という(4)。

 〈脱成長〉論は、このように幅広い意味をもっており、経済人類学者である丸山真人は、ラトゥーシュをはじめとする〈脱成長〉派の運動を、「経済成長に依存しなければ成り立たないような経済制度を改めて、たとえマイナス成長であっても生活空間の自立と自存が維持できるような経済制度に転換していく」試みとして理解している(5)。

 〈脱成長〉論の中心的な議論は、経済成長パラダイムへの批判や、経済と政治のローカリゼーションの実践理論に関するものである。2010年に出版された、『経済成長なき社会発展は可能か?』(作品社、2010)は、そうした議論の流れに位置づけられる。それだけではなく、『〈脱成長〉は、世界を変えられるか?』(作品社、2013)においてラトゥーシュは、それまでの問題関心を引き継ぎつつもより幅広く、文明論的な視点での問題設定や、倫理学としての〈脱成長〉論の体系化も目指している。


1.経済決定論

 ラトゥーシュは、「頭の中でハンマーをもつと、すべての問題が釘の形に見えてくる」というマーク・トゥウェインの言葉を引用しつつ、近代人の頭の中には経済学のハンマーが埋め込まれていると指摘する(6)。経済学のハンマーとは、経済学や経済学者によってつくられる、経済成長・経済発展・消費主義のイデオロギーである。そうした状況に対して、ラトゥーシュはカストリアディスを引用しつつ、「想念の脱植民地化」の必要性を主張する。

 ラトゥーシュによれば、「経済発展、経済、経済成長の諸想念からの脱出は、経済に付属しているあらゆる社会制度を断念するのではなく、これらの社会制度を別の論理の中に埋め込み直すことを意味する」という(7)。これをポランニー風に言い換えれば、経済システムのなかに埋め込まれた社会システムにかわって、経済システムを社会関係のなかに埋め戻すということである。

 ラトゥーシュによれば、想念を脱植民地化した「〈脱成長〉の精神は、効率性、パフォーマンス、卓越性、短期的な収益性、コスト削減、可変性、投資に対するリターンなどなど、その結果が社会関係の崩壊を導くような言葉を金科玉条として掲げる、あらゆる分野における右のような経済の強迫観念的な追求ならびに潜在的な新自由主義イデオロギーの対極に位置する」ものである(8)。そのうえで、「われわれが構想し求めなければならないのは、経済的価値を中心的な価値(あるいは唯一の価値)とはしない社会、つまり経済を究極の目的としてではなく人間生活の単なる手段として位置づける社会である」(9)。そのなかでも「重要なことは、生産・消費の拡大とは異なる意味を人間生活の中心に置くことである」という(10)。

 こうしたラトゥーシュによる「想念の脱植民地化」の提言は、ポランニーの「経済決定論」にたいする批判によって、内容がより明確になると思われる。

 ポランニーは、「新しい西洋のために」において、「産業革命が人類史の分水嶺だった。三つの力――工業技術・経済組織・科学――がこの順番で、同じ系譜のなかから別々に誕生し、互いに絡み合いながら(ただし当初は目立たずに)まだ百年もたたぬ以前、社会の激動を準備した」と述べる(11)。『大転換』でも述べられていたように、生産において高価で精巧な機械を使用することは、自己調整的な市場を必要とする。その過程は、経済的自由主義によるものではなく、国家の介入などによる人為的な選択の結果であった。そして、これに科学が加わることとなる。そして「これら三つの力すべてが、いよいよ勢いを増していった。工業技術と科学の深まる友好関係に経済組織は好機を見出し、生産における効率性の原理が(市場と計画の双方の力によって)眩暈をもよおさせるほどに推し進められていった」のである(12)。

 ポランニーによれば、「これら三者(経済組織と同様に科学や工業技術も)を、人間の別名である進歩と、自由の謂いである人格の完成というわれわれの意思に従属させること、これこそが不可欠の生存条件となった」という(13)。

 彼は、「時代遅れの市場志向」において、「われわれの世代の眼に資本主義の問題と映るのは、実は、産業文明というはるかに巨大な問題なのである」と述べ、 経済システムとしての市場経済の背後にある、「機械時代の挑戦」やヒロシマ・ナガサキの原爆に代表される「科学的野蛮」に対する懸念をあらわしている(14)。   

 ポランニーは、産業文明は、「個人の疲弊によって、社会を豊かにした」と指摘する 。そして、その一方で、「今日われわれが直面しているのは、技術的には効率が落ちることになっても、生の充足を個人に取り戻させるというきわめて重要な任務である」と述べている(16)。

 そのうえで、「私が願うのは、生産者としての毎日の活動において人間を導くべき、あの動機の統一性を回復することであり、経済システムを再び社会システムのなかに吸収することであり、われわれの生活様式を産業的な環境に創造的に適応させることである」という(17)。そのためには「機械文明の中で人の生に対して意味と統合を回復させるという課題と向き合わなくてはならない」のである(18)。ポランニーは、『大転換』の最終章を掘り下げた草稿の中で、責任が取り除かれるとき、われわれの意味が奪われる、そして、精神的生活は、意味が奪われるとき消滅すると述べている。こうしたポランニーの議論は、次章以降で取り上げる。

 さて、こうした課題に挑むうえでまず障害となっているのが、「経済決定論」である。

 市場社会の成立によって、人間と社会に関する新たな見方が形成された。「人間に関しては、その動機を『物質的』および『観念的』と規定することができ、日常生活の組織化をもたらす誘因は『物質的』な動機から生まれる」とする考えが示された(19)。一方、「社会に関しては、社会制度は経済システムによって『決定される』」という考えが提示された(20)。これらはどちらも市場経済のもとでのみ妥当であり、ポランニーにとっては「市場経済が遺した有害なもの」である(21)。ポランニーは、こうした見方を「時代遅れの市場志向」や「経済決定論の信仰」において批判している。

 こうした決定論は、ポランニーによれば経済的自由主義者にもマルクス主義者にも共通である。また、「原理的には市場経済と同義である十九世紀的形態の市場システムを擁護しないのであれば、私たちは必然的に自由を喪失することになる」と警告する自由放任主義的決定論に対して、その妥当性を疑問視している(22)。さらに、「個人の自由を制度的に保障することはいかなる経済システムとも両立する」と述べている(23)。ポランニーにとっては、自由は市場経済の副産物であるが、市場経済が消滅した後においても、自由を制度的に保障することが可能なのである。


「市場への隷属から自由になることによって、人はもっと重要な自由を獲得することになる。人間は、企画したり組織したり擁護したりできる十分な自由を享受できることを確信して、想像力に従って、自由に自分の社会を再び創出しつくり上げていくことができるのである」 。

カール・ポランニー『市場社会と人間の自由――社会哲学論選』大月書店、2012 p.254。




2.経済における〈凡庸な悪〉と見通し問題

 ラトゥーシュは、現代消費社会における倫理的欠陥を、〈悪の凡庸さ〉という、ハンナ・アーレントの言葉を用いて説明している。例えばラトゥーシュは、「あらゆる資本家、あらゆる金融資本家、またあらゆる合理的経済人(われわれは皆そうである)は、経済における悪の平凡さに加担する一般的な〈犯罪者〉となる傾向がある」と述べている(24)。

 〈凡庸な悪〉とは、第二次世界大戦中にユダヤ人の虐殺を指揮したアドルフ・アイヒマンの裁判で、アーレントが見出した新しい悪の問題である。アーレントが問題視したのは、「他者の具体的な立場にたって物事を思考することができない状態」である、思考欠如である(25)。そのような状態では、自らの行為が他者に及ぼす結果について想像力を働かせることができなくなる。〈悪の凡庸さ〉は、思考欠如が、特定の地位にある人間のみならず、市民社会の日常にまで浸透している状況を指す概念である。

 産業文明においては、経済秩序は倫理的に中立、もしくは良いものであるとみなされており、物質的に豊かで快適な社会を目標とする社会においては、途上国からの搾取や原子力の利用も、そうした社会のための手段として肯定されてしまう。その一方で、生態系の破壊や労働者の搾取、原子力の利用に伴うあらゆるリスクに対して想像できる人は、それほど多くはないであろう。

 ラトゥーシュが批判する、経済における〈悪の凡庸さ〉とは、経済活動にともなう、または「経済」を基準とする際に生じるこうした思考欠如の状態である。中野佳裕によれば、ラトゥーシュにとって「消費社会の問題は、際限なき経済成長を優先するあまり、人間その他の生命の具体性や単独性に対する想像力が欠如する状況が社会全体に構造的に組み込まれる点にある」という(26)。そのため、自らの力を内発的に抑制できないのである。

 こうした市場経済の倫理的欠陥の認識は、ポランニーにも見られる。例えば、「自由について」という講演原稿においてポランニーは、このような問題を「おそらく殺される中国人の哲学的寓話」を例に説明したうえで、以下のように述べている。


「市場で適切な値をつけることができるものは誰でも、人類が供給できるすべてのものを即座に魔法で呼び出すことができる。この人為的な仕掛けの結果は、市場の向こう側に属する。この結果について彼は何も知らないし、何も知らないでいることができる。今日ではこの個々の人間の誰にとっても人類全体が名もなき中国人からなっていて、誰もが自分の願いをかなえるためには彼らの命を平然と抹殺する準備ができているし、実際に抹殺しているのである」 。

カール・ポランニー『市場社会と人間の自由――社会哲学論選』大月書店、2012 p.41。



 市場経済に埋没している人々は、「現にあるような経済では責任感が市場のこちら側にだけ存在しているかぎり、あらゆる欲求充足は他の人間の労苦や労働の危険、病気や悲劇的な事故という犠牲を払って得られる、という事実が存在しないかのような錯覚に簡単に陥る」のである(27)。すなわち、市場経済に生きている人びとは、自らの行為や選択の結果が他者に対して与える影響に対する責任をとることができず、義務や責任を担うことを通しての自由が制限されているのである。

 こうした傾向をもつ市場社会に対してポランニーは、責任を担うことを通しての自由を拡大させる方向性を目指している。そのためには、人びとが自分の行動の、意図的な、もしくは非意図的結果を見通せるように、社会の透明性を高めていくことが求められる。ポランニーにとって、社会的自由の最高の段階とは、

人間相互の社会的関連が、家族や共産主義的共同体において実際そうであるように明瞭で透明になった時である。この認識に基づいてわれわれの生存の社会的作用に責任を担うことができるようにするために、他の全員の生活に対する、同様にわれわれ自身の生活に対する、われわれの生活の動きの反作用を直接に追跡できること――これが社会的自由の最後の言葉である。社会的諸問題へのわれわれ自身の関与を自分自身で処理すること、作用と反作用とを自分自身のなかで均衡させること、そして社会的存在の避けられない道徳的な負債残高を自由にわが身に引き受け、英雄的に、あるいは謙虚に、いずれにしても意識的に担うこと、それが人間に期待できる最大のことである

カール・ポランニー『市場社会と人間の自由――社会哲学論選』大月書店、2012 p.38。

 その一方で、そうした世界は、「弱いわれわれ人間にとっては、恐ろしいものに見えるに違いない」とも認識している(28)。

 ラトゥーシュが、「良心的経済成長反対者が生きる楽しみを発見するのは、経済領域に広がる〈悪の陳腐さ〉に加担する消費主義への抵抗においてである」というように、経済における〈凡庸な悪〉に抵抗することは、〈脱成長〉社会の構築への足掛かりとなる(29)。われわれが生活する消費主義経済における〈凡庸な悪〉への抵抗は、市場社会が不可避的に生み出す犠牲を覆い隠しているヴェールを見通すことから始まるのではないだろうか。


3.複雑な社会における人間の自由

 ポランニーの主著である、『大転換』の最終章には、「複雑な社会における自由」というタイトルがつけられている(30)。複雑な社会という言葉の定義は、ポランニーによって説明されてはいないが、若森によれば、「複雑な分業に基づく非人格的諸力によって支配される社会、機械の大規模な使用に基づく社会、人びとの意図的行為が強制力や世論といった意図せざる社会的影響をもたらす社会」という意味で使用されている(31)。また、複雑な社会の特徴は、「私たちの行為が及ぼす社会的結果を直接的に追跡することができない」ということである(32)。

 「複雑な社会における自由」では、制度的次元の自由論、道徳的・宗教的次元の複雑な社会における自由の意味、社会の現実と自由をめぐるジレンマに関する問題、というポランニーの自由論の三つの論点が提示されている 。

 まず、ポランニーは、規制による自由の拡大や制限に関して、それに伴う失われた自由と獲得された自由の間の調整が重要であると指摘する。その一方で、「その維持が至高の重要性をもつような自由もまた存在する」という(33)。それは、19世紀経済の副産物であり、そうした自由のうち、良い自由と悪い自由を区別し、よい自由を維持し、拡大するための自由の制度化が求められている。また、権力を恐れることなく、自己の良心に従うことを可能とするために、不服従の権利を制度的に保障することを提案する。これらが制度的次元の自由論の内容である。

 次に、道徳的・宗教的次元の複雑な社会における自由の意味だが、これは、経済的自由主義者から提起された、自由の存在可能性そのものへの疑問へのポランニーからの応答である。経済的自由主義者は、市場社会が複雑な社会であることを見落とし、意図的行為の非意図的結果に対して責任を負っていないという幻想に陥っている。したがって、ポランニーが「社会の現実の基本的骨格」であるという権力と経済的価値決定の創出に、普通の人びとが巻き込まれているにもかかわらず、その責任が問われることはない(34)。経済的自由主義者には、意図的行為の非意図的結果としての権力と経済価値を説明できず、その存在理由を否定できないのである。ポランニーは、社会の現実である権力と経済価値を否定するのではなく、制度改革によって、自由を保持することが可能であると考えた。

 第三に、社会の現実と自由をめぐるジレンマに関する問題だが、これは経済的自由主義の哲学によって設定された。経済的自由主義は、「権力と強制は悪であり、自由には人間社会における権力と強制の消滅が必要である」と主張する(35)。しかしながら、経済的自由主義者の立場をとるならば、選択肢は二つしかなくなる。すなわち、自由の観念を固守し、社会の現実を否定する経済的自由主義者の結論であり、社会の現実を受け入れ、自由を拒絶するファシストの結論である。

 こうして、自由の可能性そのものが問題となる。複雑な社会における規制が自由を拡大し強化する唯一の手段であり、それを行使すること自体が自由そのものに反対する場合、そのような社会は自由であるはずがない。このジレンマの根本には、自由の意味をめぐる問題がある。

 市場ユートピアとの決別によって、社会の現実と向きあうことになる。ファシストも社会主義者も社会の現実を受け入れる。両者の立場は、社会の現実に照らして自由の観念を保持しうるかどうかという点において決定的に異なる。ポランニーによれば、ファシストは、「甘んじて自由の放棄に身を任せて社会の現実である権力を賛美する」という(36)。一方、「社会主義者は、その現実を受け入れながら、それにもかかわらず自由の希求を擁護する」のである(37)。

 ここまで、『大転換』最終章におけるポランニーの自由論を紹介してきたが、ポランニー独自の倫理的・社会的次元の自由論についての説明がほとんどなされていない。ポランニーがウィーン時代に執筆した「自由について」という草稿を踏まえて、ポランニーの自由論を検討していきたい。ポランニーは以下のように、社会的存在としての人間の自由、すなわち社会的自由を定義している。


自由であるというのは、したがってここではもはや典型的な市民のイデオロギーにおけるように義務や責任から自由だということではなく、義務と責任を担うことによって自由だということである。それは選択を免れたものの自由ではなく、選択する者の自由であり、免責の自由ではなく、自己負担の自由であり、したがってそもそも社会からの解放の形態ではなく、社会的に結びついていることの基本形態であり、他者との連帯が停止する地点ではなく、社会的存在の逃れられない責任をわが身に引き受ける地点なのである 。

カール・ポランニー『市場社会と人間の自由――社会哲学論選』大月書店、2012 p.34。



 この文章に、ポランニーの自由論、すなわち義務や責任を担うことを通しての自由が表れている。


 ところで、ポランニーは、シェイクスピアの悲劇である『ハムレット』について考察している(38)。若森みどりによれば、主人公であるハムレットの憂鬱の「秘密」は、「自らの願望や意志のままに生きられない社会的存在としての人間の条件を示している」という(39)。ハムレットの人生に生じた、叔父による父の殺害と王位の簒奪、母親と伯父の再婚、父の亡霊に命じられた復讐という事象は、いずれもハムレットの自由な意志から生じたものではない。父親の亡霊という他者に呼びかけられ、復讐を行おうとするならば、ハムレットは自分の人生におけるすべてを犠牲にしかねない。一方で、復讐をしないのならば、父親の遺志に応答しないこととなる。ハムレットは、狂人のふりをしつつ、復讐のときを引き延ばす。そしてハムレットはその代償として憂鬱に苛まれることとなる。ポランニーはハムレットの精神生活の破滅を避けるためにも復讐の延期が必要であったと強調する。ハムレットは物語の結末において復讐を果たすのだが、それを決断したのは、恋人の父親を誤って殺害し、恋人も事故死したことがきっかけである。ハムレットは、その時に自分自身も他者を傷つけうるということを受容する。その時、ハムレットにとって復讐は、他者によって強いられたものではなく、自らの決断となったのである。そして、ハムレットは憂鬱から解放され、ハムレットの人生は充足する。

 以上がポランニーの『ハムレット』理解だが、『ハムレット』は高橋哲哉の犠牲の論理からも解釈できるのではないだろうか。

 高橋哲哉は、「イサク奉献」についてのジャック・デリダの議論を参照しつつ、「ある他者(神)に対して忠実であろうとすれば、別の他者(イサク)を犠牲にしなければならない」という、「絶対的犠牲」の構造を示す(40)。高橋によれば、この犠牲の構造は「日常的な構造そのもの」であるという。すなわち、ある他者への責任を果たそうとすれば、別の他者たちに対して無責任となり、そうした無責任でさえも、批判や告発の対象となりうる。そして高橋は、「人は『絶対的犠牲』の構造のなかで決定しなければならないのであって、その外部は存在しない」、と結論づける(41)。そのような強力で、普遍的な性質を持った犠牲の論理に対して、高橋は、それでもなお「あらゆる犠牲の廃棄は不可能であるが、この不可能なものへの欲望なしに責任ある決定はありえない」という認識を提示する(42)。

 これを『ハムレット』解釈に援用するならば、ハムレットもアブラハムも、それぞれ父親の亡霊と神という他者に呼びかけられ、それぞれ別の他者を犠牲にしなければならない、絶対的犠牲の構造におかれている。

 このように理解するならば、絶対的犠牲の構造の中におかれ、自らの意思や願望のままに生きられないということが社会的存在としての人間の条件であるといえる。そして、そのような絶対的犠牲の構造を受容し、決断していくことが人間の生の充足において、また人間の自由にとっても重要である、といえるだろう。

 以上の議論を市場社会批判に応用するならば、市場社会において不可避的に、また恒常的に生み出される絶対的犠牲に対してどのように応答するのかという、先進国に暮らすわれわれの責任=応答可能性(responsibility)が問われているといえるであろうし、そうした応答可能性としての責任を担うことを通じて人間の自由を拡大することが自由な脱成長社会の出発点となるだろう。

(1) カール・ポラニー『[新訳]大転換――市場社会の形成と崩壊』東洋経済新報社、2009 p.ⅶ。
(2) 中野佳裕「セルジュ・ラトゥーシュの思想圏について」セルジュ・ラトゥーシュ『経済成長なき社会発展は可能か?――〈脱成長〉と〈ポスト開発〉の経済学』作品社、2010 p.303。

(3)同上 p.304。

(4)同上 pp.304-5。

(5)丸山真人「エコロジー経済学と生命系の経済学」『経済学論叢』(同志社大学)第65巻第3号 p.119。

(6)セルジュ・ラトゥーシュ『〈脱成長〉は、世界を変えられるか?――贈与・幸福・自律の新たな社会へ』作品社、2013 p.164。

(7)セルジュ・ラトゥーシュ『経済成長なき社会発展は可能か?――〈脱成長〉と〈ポスト開発〉の経済学』作品社、2010 pp.174-175。
(8)同上 p.201。

(9)同上 p.123。

(10)同上 pp.123-124。

(11)カール・ポランニー『ポランニーコレクション 経済と自由――文明の転換』筑摩書房、2015 p.32。

(12)同上 p.32。

(13)同上 p.32。

(14)カール・ポランニー『経済の文明史』筑摩書房、2003 p.73。

(15)同上 p.69。

(16)同上 p.69。

(17)同上 p.68。

(18)ポランニー前掲書(2015) p.38。

(19)ポランニー前掲書(2003) p.51。

(20)同上 p.52。

(21)カール・ポランニー『市場社会と人間の自由――社会哲学論選』大月書店、2012 p.245。

(22)ポランニー前掲書(2015) p.58。

(23)ポランニー前掲書(2003) p.73。

(24)ラトゥーシュ前掲書(2010) p.154。

(25)ラトゥーシュ前掲書(2013) p.290。

(26)同上 p.291。

(27)ポランニー前掲書(2012) p.40。

(28)同上 p.42。

(29)ラトゥーシュ前掲書(2013) p.222。

(30)野口健彦と栖原学が翻訳したカール・ポラニー『[新訳]大転換――市場社会の形成と崩壊』(東洋経済新報社、2009)では、「複合社会における自由」となっているが、若森みどりらが編訳したカール・ポランニー『市場社会と人間の自由――社会哲学論選』(大月書店、2012)では「複雑な社会における自由」となっている。本論では、若森らにしたがって、「複雑な社会における自由」とした。
(31)若森みどり『カール・ポランニーの経済学入門――ポスト新自由主義時代の思想』平凡社、2015 pp.237-238。

(32)ポランニー前掲書(2012) p.293。

(33)若森前掲書(2015) p.236。

(34)カール・ポラニー『[新訳]大転換――市場社会の形成と崩壊』東洋経済新報社、2009 p.460。

(35)同上 p.465。

(36)同上 p.464。

(37)同上 p.467。

(38)同上 p.467。

(39)ポランニー前掲書(2012) p.24。

(40)同上。

(41)高橋哲哉『国家と犠牲』日本放送協会出版、2005 pp.228-229。

(42)同上 p.232

(43)同上 p.233。

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