コンビビアルとは~コンビビアルなマネジメント③
英語やフランス語においてコンビビアルという言葉は日常的にあまり使われていませんが、スペイン語では、日常的に使われています。
con-は、「共に」の意であり、vivialは「活き活きしている」様を表します。従って、単純に言い表すと「共に活き活きしている」ことになります。
しかしこれを短絡的に「共生」とするべきではありません。イリイチはこの言葉を思想語に練り上げて使用しました。従って、少なくともイリイチ文脈でこの言葉を使うならば、安易に「共生」と捉えるべきではないのです。
「共生」は、Symbiosisであって、ConvivialはSymbiosisのもつ生物学的な意味合いを指しているのではなく、また環境的なことや共同生活のことを指しているのでもありません。
イリイチは、人類の生存原理は、Ecology(エコロジー)にはなく、Convivial(コンビビアル)にあると言っています。環境破壊以上に破壊されているものがあるという主張です。またイリイチは集団主義も嫌悪しています。すべての基盤には個々人の自律がある、という考えです。
この考えは、個人主義と一括りにされる傾向がありますが、イリイチは《Weに属するIを失った、Iの集合化》(山本)を否定しているのです。言い換えれば、「コミュニティ/場所」に属する個人を失った、個人の集合化を憂いているのです。これは、行き過ぎた近代以降の個人主義とはまったく違うものです。
本書ではコンビビアルを「自律している個人がお互いの存在を認め合い、共に活き活きしている」様(関係性・空気感)であると定義します。
近代資本主義は、コミュニティ/場所を解体することによって、個人を「孤人」にし、その「孤人」を一パーツとして社会構造に組み込みながら成長を果たしてきました。その是非の議論は、ここでは控えますが、確かなことは、多くのコミュニティ/場所でコンビビアルな状態が失われてきてしまったということです。
無限成長はわたしたちの豊かさに決して繋がりえないこと、そもそも無限成長自体ありえないということが、ようやく社会価値基盤の再構築の観点から最近議論されるようになってきました。特に未来の当事者であるZ世代からの様々なカタチでの提議はバイアスのかかっていない純粋な眼からのものでとても本質的です。このような貴重な提議をきちんと未来に活かすには、社会価値基盤の再構築が必要不可欠で、その核のひとつとなり得るのが、コンビビアルだとわたしは考えています。
コンビビアルについて、わたしが気づきを得た出会いをもうひとつご紹介します。
神奈川県の平塚にある福祉施設Studio COOCA(株式会社愉快)代表の関根幹司さんとの出会いです。Studio COOCAは様々なハンディキャップをもった人が、その人の好きなこと・得意なことで活躍する、仕事する、ことを目指して活動する福祉施設です。具体的には、絵画を中心にした創作やパフォーマンス、オリジナルグッズの製造販売、ライセンス提供等を行っています。アート活動を中心にした福祉施設は、アールブリュットやアウトサイダーアートへの関心の高まりもあり、昨今急速に増えつつありますが、Studio COOCAはその先駆け的存在です。先駆けであった分、多くの障壁を乗り越える必要があったのですが、ようやく様々なところで社会価値基盤の再構築がはじまりつつある今、改めて注目を集めています。
このStudio COOCAを含む株式会社愉快のビジョン/ミッションの再構成を図る際に、大切にしたい考えを関根さんと一緒にまとめる機会がありました。株式会社愉快はこれから新しいカタチのコミュニティの創造に挑戦していくのですが、その骨子となる考えです。それは次のようなものです。
◇ 現代社会が失った、豊かな人間社会に必要不可欠なこと、それは、「想いを馳せる」ことである。
集団で生きていくために必要不可欠なことは、万物、他者に想いを馳せることであり、それを失ったから環境破壊や様々な分断が起きている。
◇ 自立とは頼れる人、コミュニティを複数もつことである。
自立とはひとりで生きることでは決してない。頼れる人、コミュニティを複数もつことこそが「自立」の基盤である。
◇ できることから一歩ずつ、快く愉しみながらでしか、社会の基盤は創れない。
最初から完全なものなど創れない。「愉快」でなければ愚直な歩みは続けられない。
◇ オトナも高齢者もこどもも、企業もNPOも、そして障がい者も豊かな社会には必要な存在である。
多様性を目指すのではない。多様なのが当たり前であり、多様な人たちとフラットな関係性(助け合い、補い合う関係性)を築くのである。
◇ 障がい者とは、豊かに生きるうえで乗り越えるべき社会の課題を提起している人である。
本来はどのような属性であっても課題を提起すべきであるが、現代社会ではできていないのが実情であり、障がい者がその役目を負っている。
◇ ケアとは高齢者や障がい者への「施し」ではない。
ケアの本質は「想いを馳せる」ことである。それは豊かな社会の基盤となるもので、社会に存在する万物、人に相互に自然と現れるものである。
◇ 想いを馳せること、ケア、を追求すると結果としてしなやかな「自給自足(循環)」が実体化される。
原理主義的な自給自足を目指すのではない。相互に想いを馳せることさえできれば結果として、そこにしなやかな「自給自足(循環)」が実体化されるのである。
コンビビアルという言葉はどこにもありませんが、まさにコンビビアルなコミュニティ/場所を創ろうとしているのです。ここで大切なポイントは、これまでの知の基盤(社会によってインストールされたバイアス)の「転倒」が随所にみられることです。ここで挙げたすべてがこれまでの社会での考え方を「転倒」させたものだといえます。
観る視点を変えることは難しいことです。
しかし、観る視点を変えることで世界は、あるべき社会像は、まったく異なったカタチとしてわたしたちの眼前に現れます。
コンビビアルなコミュニティ/場所は、簡単に創れます。
そのために必要なこと、それは今まで無意識に形成してきたバイアスを直視し、ゼロに戻す作業です。
家族も学校も地域も、そして企業もコミュニティのひとつの形態です。様々なコミュニティがコンビビアルな状態になること、正しくはコンビビアルな状態を取り戻すこと、そしてその前提として個々人がコンビビアルな状態を取り戻すこと、それぞれがコンビビアリストになること、そのことにこの本が少しでも寄与することができれば嬉しい限りです。
続く