「感動ポルノ」からの脱却

今朝、この文章を読み、
いろいろ思うことがあったので、久しぶりにnoteを書きます。

まずこの感動ポルノという言葉
知らない方はこちらの動画をご覧ください

ステラ・ヤングがTEDでスピーチし話題となりました。
彼女の主張は衝撃的で、障害者を含む多くの人が同意し、「感動ポルノ」という言葉は一躍有名になりました。
例えば24時間テレビは感動ポルノではないか」といったような主張や考えが見られるようになりました。

私は何度かこの「感動ポルノ」という言葉に対して、完全なる同意が出来ない、とSNSやブログに書いています。
ステラ・ヤングしかり、今回のこの母親の主張に共通することは
「人として対等に扱って欲しい」という想いだと私は解釈します。
(記事の文末にも『「どうしようもなく愛らしい、障がいのある女の子」という対象物としてではなく、ひとりの人間としての娘を知ってほしいのだ。』と書かれています)

この文章だけを見ると同意できるのですが、時にこの「人間として」が「普通の人として」に変換されてしまっているように感じます。この記事の中にも、母親は「普通に娘に接して欲しい」と書いています。
では、まずこの「普通」とは何でしょうか?

やはりその中には「健常者の子供と同じように普通に扱って欲しい」という想いが見え隠れているように、私には感じられます。

確かに障害ある子供が歩いたことに対して、過剰なる称賛を浴びたり、
ヒーローのように扱われたりすることに対して、苛立ちを覚える気持ちは理解します。またそういった発言や行動をとることで、
障害のある人に優しくしている自分を美化する人もいますし、障害のある人に憐れみしか持てない人もいます。もちろんそれは、障害のある人と小さいときから接していくことや教育、存在に慣れていくこと、様々な経験を通して少しずつ関係を創っていくことで変わっていくのですが。

しかし、私はどうしてもこのお母さんは、娘の障害に対して自分自身が哀れんでいるような印象を感じました。

普通なら歩いただけで賞賛は浴びないです。
しかし、今の社会は障害のある人が多少頑張らないといけない社会であることには変わらなくて、社会が変わればバリアは排除され、障害が軽減されるとは思いますが、全て解消されることはありません。
そして社会、というより、差異のある身体を持っているという現実は
いつまで経っても、というか簡単に拭い去れるものではありません。

哀れむということと、認めるということは違うのだけど、
そこが混同されているように感じます。

障害に関係なく、社会は不平等であり、
その中で身体差異というものは、大きく人生に影響します。

障害にまつわることで、その子自体ができたことに関しては素直に喜んであげて欲しい。褒めてあげて欲しい。出来たことは当たり前じゃない。
その子が自分で努力して、自分なりの歩き方を獲得したのなら、ちゃんと評価してあげて欲しい。一番身近にいる人でないとできなのです。そうじゃないと、自尊心が失われてしまいます。「どうしてこんな身体に産んだの?」と言われた時、この母親はどう答えるのだろうか?

正しく人を見ること、初めにも書いたように、本心はこの母親と同じなのだと思います。でもそれを「感動ポルノ」で置き換えてはいけないと私は感じます。ステラ・ヤングの批判する「障害を持って生活するだけで立派だ」とは思いませんが、彼女が言う障害者を特別視しない「真の成果」自体が、健常者が大多数を占めるこの社会の規範に当てはめられているように私には感じられるのです。声をあげない限り、拾われない限り、障害のある人の個々の努力は過小評価されます。それならもっと障害を含めた自分自身のアイデンティティーを愛せるような社会を目指すほうがいいのではないだろうか。もちろん障害・健常とか関係なく、個々の努力の達成が正当に評価されるべきなのだけど。

そのためには、もうそろそろこの「感動ポルノ」から脱却していく必要があるのではないだろうか。あと、この「感動」って何なのか、について考えてみるのもいいかもしれません。

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