短編小説『石落としと消失』(織田作之助青春賞3次選考落選作)
巨大な石垣に惹かれた先で目にしたものは、青空の下で悠然と佇む金沢城だった。美しい城に、あの日の僕はただただ圧倒されていた。あの日以来、城は僕の瞼の裏に焼き付いている。戻ることもできなければ、多くの人々がそうするように、器用に先へと進むこともできない息苦しいこの日々を乗り越えたいつかの日に、僕はあの城とあの旅が僕に与えたものの大きさを懐かしむことだろう。
お気に入りの絵本を半分も読み聞かせないうちに、幼い娘は眠ってしまった。自分ではなく妻に似たことに心底感謝した二重の瞼は、まだ無垢なままの瞳を丸く包んでいる。毛布をかけ直してリビングに戻ると、キッチンで洗い物をしていたらしい妻が、グラスに注いだお酒を僕に手渡した。「すぐに寝た?」という妻の問いかけに答えたはずだが、言葉をうまく口にできていたのかは分からない。酒の入ったグラスを傾けると、ぎっしりと詰められたように見えるロックアイスが、音を立てて容易く崩れた。
これこそが、あの城と旅が僕に与えた幸福だ。つまり、それらが僕に与えたものとは理想的すぎるほどに理想的な女性――妻との出会いだった。
得難い理想を手にし、過去を思い出すいつかの自分を、僕は巨大な金沢城を現に眺めながら思い描いていた。
この妄想が現実のものにさえなれば、僕はきっと小説家になるという夢を諦め、無感動に働く毎日に感謝するに違いない。そう考える限り、僕は間違えてなどいなかった。いつの日か自らの誤ちに気づき、後悔するべきであるのはやはり彼らの方だったのだ。そう信じようとするが、気持ちを打ち消すようにして違和感が募る毎日だった。乗るべき電車を間違えたような違和感が、影のように僕に付き纏っている。
妄想上で思い出していた城と比較しても、現実の金沢城は白く美しいことはもちろん、それ以上に何より、巨大なままだった。青空の他には城しか見えなかった。近づけば近づくほどに巨大さは強調されていく。或いはもしかすると、城の巨大さが強調されるのではないのかもしれなかった。本当は、ただ僕自身の小ささに気付かされているだけなのかもしれない。この強大な城が六度も焼失しているという史実が、僕の妄想と同程度には現実離れしているようにさえ思えた。
城を眺めるのは久しいことだった。学生の頃にも故郷に程近い田舎町で、随分こじんまりとした城を父と二人で眺めたことがあった。その城を見たときには、何故わざわざ時間をかけてまで、人はこのようなものを見に来るのかと不思議に思った。本来の用途を忘れられ、ただ鑑賞されるだけのものを眺めるよりも、机に向かって小説を書いている方がずっと有益な時間ではないかと考えていた。しかし、どういう変化が起きたのか、或いは金沢城が特別に素晴らしいものだったのかは分からなかったが、兎に角初めて見た瞬間から金沢城は初恋のように僕の胸を打った。
敷地の中には多くの門があった。初めに二つの門を超えた。石川門という名前のその門は、二つ合わせて一つの門であるという説明書きがあった。門の間には、数十人か百人程度の人が収まるであろう空間がある。この場所に、攻め込んできた敵を閉じ込めるのだろうか。見上げれば僕を射抜く弓矢の数々が目に浮かぶようだった。だが、現実には誰も僕を殺そうなどとは考えていない。僕は決して殺す価値のある人間ではないからだ。辺りには他に人の姿はなく、僕一人を罠にかけるためにも、ましてや歓迎するためにも、そこは広大すぎる場所であった。
平日の観光地はひどく空いていた。いつでもどこにいても、他人の姿ばかりが目に映り、また他人の目がない場所などない東京とは大違いだった。だからかどうか、僕は遠い場所に来てしまったのではないかという不安を覚えた。そして事実、僕は遠い場所に来ていた。
きっかけは一通のダイレクトメッセージだった。それは懐かしい友人から届けられたもので、美大に進学して卒業した今でもずっと、彫刻を彫っている友人からのものだった。彼が個展を開くという旨が記載されたそのダイレクトメッセージは、最低限の情報しか書かれていないくせに、僕の現実を強く揺さぶった。成功する未来は、少なくとも僕には想像できていなかったものだった。
親友だった男の成功を、僕は喜ぶことができなかった。彼の個展が開かれているのが、金沢城と出会ったあの日の前日からの五日間だった。だから、ダイレクトメッセージによって仕向けられた僕の旅は、個展が開かれている五日間続けられることになる。それは初めから僕以外のすべてによって、すべての物事が定められた旅だ。
すべての旅が旅人にとって、自発的に為されるわけではないのだということを、僕はその旅を通して初めて知った。
門を抜けると、青々とした芝生が広がっていた。心なしか、空の色が東京より鮮やかなように感じられる。こんな爽やかな天気の中、会社の同僚たちは東京であくせく働いているのだろう。空を見ている限り気分は良かったが、爽やかな晴天を独り占めしていることと、東京の埃っぽい空の下で働いていることと、どちらがより幸福であるのかは、僕には分かりそうになかった。
初めて有給を使って旅に来ていた。前日までは有給という響きに特別な期待を寄せていたが、実際に来てみれば思い浮かぶのは仕事のことばかりだった。長い有給を終えて戻ると、会社から自分の居場所がなくなっているのではないか。不穏な予感だけが僕を支配し続けていた。それは東京を離れるために乗った新幹線の座席が柔らかそうに見えるが実際には硬かったり、大きな山を貫くトンネルの中を走るときの耳への不快な圧迫感であったり、また或いは、東京駅で買ったことを忘れて金沢駅に到着する二十分前から飲み始めたビールのぬるさに、多分象徴されていた。それらの不穏さが僕を、あらゆる不幸の想像へと駆り立てた。自分が不幸になる様子を想像することは、自分の幸福を願うことよりも容易だった。
幸福を構成する条件の一つは、他者からの承認にある。それは、人が社会という群れで生活をするようになった以上、避けられない要素だった。そして承認は、点ではなく線で構成されている。僕は親からも友達からも先生からも、誰にも褒めてもらえることがないまま生きてきた。努力し続けてきた小説も、誰にも認めてもらえることはなかった。そういう承認を得られなかったという線的な事実が、僕から努力していない僕を許す権利を奪ってしまった。誰からも認められない自分が努力をしないことが、許されるはずはなかった。そして自分を許せないと感じるときに、僕はいつも同じことを思い出すのだ。毎朝の通勤で、電車の出入り口の窓から見える線路と線路の間に敷き詰められた小石。僕はあの小石と同じようなものだった。
無数の小石がただ空間を埋め尽くすためだけに敷き詰められている、あの光景が見たくなくて何も知らない場所にやってきた。だが、さっき通り抜けた門にも、荘厳さに言葉をなくした城を支える石垣にも、小石はいつもと同じ様子でそこにあった。石垣を構成する大きな岩の間を埋めるために、小さな石は不恰好に埋められていた。大きな岩と岩の間に挟まった小石は、普段目にしているものよりも数段小さく見えた。大きなものに挟まれていれば当然、その差にばかり目がいってしまう。あまりの小ささに、食べかすみたいだとさえ思った。小学生の頃、母によく笑われていたことが思い出される。歯が頻繁に生え変わるあの時期が過ぎ去ってから、どれだけ食べかすが前歯の間に挟めようと、母は何も言わなくなってしまったけれど。
平日の観光地にいるのは、暇を持て余した人々だけだった。老人や、大学生らしい若者の姿が目立っていた。大学生たちの笑顔が、どうしてか目についた。見ないようにしても、楽しげな姿と声が、青空に反響しているように思えた。幼い頃、寿命が近い愛犬を散歩させていたときに、筋骨隆々としたゴールデンレトリバーとすれ違った時と同じ気分だった。
三の丸広場から見える城は、その巨大さをより強固なものとしていた。覆い被さるように見える城が、空さえも隠そうとしている。大学生から視線を外して歩いているうちに、自然と僕は河北門の前に辿り着いた。僕が入ってきた石川門というのは、どうやら裏門だったらしい。いま目の前にある河北門こそが、正門であるということが近くにいた老人の話で分かった。思えば石川門から入城する人を、僕の他には見かけていない。三の丸広場にいた老人も大学生も、この門から中に入ったのかも知れない。河北門を構成する石垣には小石が詰められてなかった。それは、大きな岩と岩がぴったりと重なり合って、構成されていた。
河北門では、二階部分に位置する門櫓と呼ばれる空間に入れるらしかった。巨大な門を前に視線を右にやると、新造された階段がすぐ脇にある。階段に足をかけ一段、また一段と上っていると、抜けるように高い空の頂点に昇った太陽が、夏の暑さを思い出させた。紅葉の美しさを嘲笑うかのような暑さだったが、それが果たして本当の暑さだったのかは今となっては分からない。ただ、視界の端に写っていた誰かが、夏の服装をしていなかったことだけを覚えている。
蝉の声こそ聞こえなかったが、それでも階段を登り切る頃には額を汗が伝った。汗を流したのは久しいことだった。大学生の頃、大学の中庭にあるベンチで、刺すような陽光に抗いながら、小説や彫刻の話をしていたことが思い出された。
階段を上り切ると、門の外壁が触れられるほどの距離にあった。真っ白だと思っていた外壁には、所々に黒い染みが浮かんでいる。圧倒されるだけだった城の小さな欠点は、それだけで僕を安心させた。そのうえ門は、重ねられた瓦の光沢や、白い壁の間に装飾として挟まれたのであろう澄んだ青色の装飾によって、美しさを保ったままであった。
門の上からは城を眺める人々の姿がよく見えた。どの人も、夢を追うでもなければ仕事に打ち込むでもない、どっちつかずで欠点だらけの僕と比べれば、幸福そうに思えた。その中でも旅行に来たらしい家族の姿は、苦しいほどに幸福そうだった。幼い少年がはしゃぐのに合わせて芝生を駆け回ったり、城をバックにした写真を撮影している。その姿は、僕の想像していた妄想よりも遥かにリアルでありながら、同時にまた遥かに幸福そうでもあった。そのすぐ側でも、同様に幸福そうな二人組の女子大生が写真を撮り合っている。位置取りやポーズを変えて、何枚も写真を撮り合っていた。どの人にも、自分が成り代わることはきっと可能だったのだろうと思った。そしてそれは可能であったはずにもかかわらず、今の僕にはもう叶わないのだろうとも分かっていた。
僕が今こうやって生きていることは、僕自身が決めたはずだった。だが、こうやって日常から離れてみれば、僕が選んだ現実は、僕を幸福にはしてくれそうにないということに気がつく。幸福そうな家族や、呑気に遊んでいる学生のように僕はなりたかったわけではない。僕はただ、僕の抱える苦しさを小説として形にしたかったのだ。そしてその先で、小説家としての活動を夢見ていた。しかしながら、小説家になりたいことと同等かそれ以上に、当時の僕にとって明白過ぎるくらいに明白なことが一つだけあった。僕は、コンビニのサンドイッチすら買うことが躊躇われる生活を送ることに、もうあれ以上耐えられそうにはなかったのだ。
門櫓に足を踏み入れた。中に入ると鮮やかに陽光に照らされていた外とのコントラストによって、目に映る光が一時的に奪われる。幸福そうな家族連れと大学生たちの姿が、影送りのようにチラついた。靴を脱いであがると、床はワックスがけでもしたかのように磨かれている。広い空間には柱以外には何もなく、他の観光客の姿もなかった。ようやく幸福そうな人々の影が鳴りを潜め、薄い色の木材で覆われた壁に目をやると、壁の中身がどのようになっているかを示す展示があった。立派に見える壁の中身は、ほとんど砂のようなものでできているらしかった。しかし、そこに小石は使われていない。大きな岩は石垣に使われ、小石よりも更に小さい砂は壁を支えているにもかかわらず、小石だけが、どこにも見当たらなかった。
隅の床に、扉のようなものがついていた。近くにあった説明パネルを読むと、それは石落としという名前で、何者かが侵入してきたときには、そこから重いものを落として、攻撃するための物だったらしい。名前こそ石落としというらしいが、有事の際に落とされていたものは石と呼ぶには大きすぎる、岩のようなものだったのだろう。錆びついた扉は一つだけ開かれていたが、その他には「触れないでください」という注意書きが置かれていた。
石落としからの景色を眺めようと思ったタイミングで、三の丸広場で熱心に写真を撮り合っていた女子大生たちがやってきた。空っぽのこの場所で、彼女らと自分だけが存在することに耐えられそうになかったが、今はもう無用の長物となった石落としから見える景色への興味が勝った。しゃがみ込んで覗くと、誰もいない空間に、ただ陽の光だけが差し込んでいる。
「何もないね、ここ」
「ぱっと見だと体育館っぽいかも。これはちょっと映えそうにないかな」
背後で女の子が話している内容が、聞く気がないにもかかわらず耳に入ってきた。
「やっぱり、兼六園の写真の方が良かったんじゃない? インスタグラマーの投稿が少ない場所を狙うっていうのは、いい考えだと思うけどさ。やっぱりまずは王道のところでフォロワー増やすとか」
二人はインフルエンサーを目指しているらしい。SNSで多くのフォロワーを保有する人には、企業から宣伝の依頼とともに、洋服や腕時計、アクセサリなどが届くという話を聞いたことがある。背後の二人組は恐らく、そういうものを目指しているのだろう。だが、小説家を志していた僕は、多くの人々から抜きん出ることの難しさをよく知っていた。だから、彼女たちの今後を思うと、恐ろしささえ感じていたその二人に、俄かに親しみを覚える。
立ち上がると、背後から女性に特有の華やかな香りが漂ってきた。壁を眺めるふりをして横目で盗み見ると、髪の長さが対照的な女の子が二人いるのが分かる。先ほどこの城で写真を撮ることを否定していたのは、どうやら髪の短い方の女の子らしい。
夢を諦めずに、努力を続けて小説家になっていたならば、彼女たちが僕と写真を撮ることを望むこともあったのだろうか。そしてそのことをきっかけに会話が生まれ、二人のうちのどちらかと交際をし、いずれは結婚をするというようなことも、あり得たのだろうか。遠目から城を眺めていたときに思い描いた妄想を、試しに長髪の女の子で再度思い描いてみた。幸福に違いない妄想はしかし、妄想にも関わらず実現することはなかった。手の届く距離にいる少女との妄想は、思い描いたそばから、今の会社をクビになり、労働基準法を守らない小さな会社に入って、過労死寸前まで働いている自分の姿へと変わってしまった。その妄想で僕が住んでいたワンルームの部屋にはカップ麺とコンビニ弁当の空の容器が無数に転がっており、敷きっぱなしの布団は所々カビていた。ゾッとする光景だった。見たこともないその光景は、食べ終えたカップ麺とコンビニ弁当にこびり付いた食べカスが腐って、すえた匂いを発しているところまで、いやにリアルに感じられた。まるで、過ぎ去った遠い未来の一日を、思い出しているかのようだった。そんな場所に彼女のような女の子が、妄想のこととはいえ現れるはずもなかった。
門櫓から抜け出ると、城全体が紅葉した木々に囲まれていることに気がついた。鮮やかな赤が僕に、焼失し再建されたという城の歴史を想起させる。思い描いた光景とは裏腹に、夕方も近づいてきた城内では、人々が変わりない姿で楽しげに観光をしていた。
振り向くと、先ほどまで自分がいたあの静かな空間から、少女たちの楽しげな声が微かに漏れ聞こえて来ていた。大学生の頃は僕も、自分に才能があるということを信じて疑っていなかった。だが、現実には僕はここで一人、小説家ではなく会社員として立っている。あの頃吐いた大言壮語は、いつの間にか僕を呪う鎖となっていた。大学時代の友人たちに会うのが恥ずかしくなっていたことに気がついたのは、いつのことだっただろうか。その頃から、不甲斐ない姿を人に見られることが段々と恐ろしいことになっていた。ただ自分の目標が叶いさえすればいいと思っていたのに、いつの間にか僕は、周囲の人にどう見られているのかということを軸に考えるようになってしまっていた。人の目を気にしてばかりの人間に、所詮小説家になるなどという夢を叶えることはできなかっただろう。
石落としから見た場所から石落としがどのように見えるのかを確かめるために、隙間なく組み上げられた石垣を目に写しながら、河北門を通過する。見上げてみたが、中にいるだろう二人の少女の存在はもちろん感じられなかった。見えるのはただ無骨な門だけだ。先刻石落としから見た場所に出ると、それまで僕がいた場所と、その場所を見上げている僕のいるこの場所が繋がっていることに奇妙な感覚を覚えた。自分の身体と意識がそれぞれ二重に存在している。パソコン上でコピーペーストをしたときのような感覚だった。
石落としを覗くと、見えたのは木の色だけだった。上からはあれほど広い範囲が見えていたというのに、下からはちょうど石落としの形に区切られた天井しか覗くことができない。何かを期待していたように思ったが、期待していたものは勿論何も見ることができなかった。
本丸の跡地に向かおうとした時、ちょうどこちらを覗いた視線と僕の視線がぶつかった。長髪の女の子の目だった。目は、確かに僕のことを認めていた。僕が僕であることに、間違いなく気がついていた。女の子は笑うでも、気味悪がるわけでもなく、暫くの間僕のことを見つめていた。彼女の目は、記憶の中の彫刻家である親友の目に似ているような気がした。そして彼女がその目で僕のことを見つめていたと自覚している以上、僕も彼女を見つめていたに違いない。その瞬間には僕はこんな簡単なことにさえ気がついていなかったけれど、それはつまりそういうことだったのだろう。やがて彼女は、何かを口にした。それは、背後にいるであろうあの短髪の女の子に向けた言葉ではないように思えた。少し間を置いて、彼女は僕の方を見たまま、もう一度同じ形に口を動かした。それは何かを懇願するかのようでありながら、僕からの懇願を促すものであると感じられた。彼女はそのまま暫く僕を見つめると、スマートフォンを取り出して、レンズのついている背面を僕の方に向けた。どうやら写真を撮って欲しいらしい。僕の考えが当たっているかどうかは分からなかったが、思い出してみると「写真撮ってもらえませんか」と、その口が動いていたように思えた。
スマートフォンを取り出し、石落としから覗く彼女にレンズを向ける。シャッターを何度も押しながら、彼女が最も可愛く映るポイントを探した。彼女も、僕が彼女の最も魅力的な瞬間を切り取ろうとしていることに気がついたようで、表情を変えたり、ポーズを変えたりしていた。石落としには落下防止のために薄いガラス板が嵌め込まれていたが、その瞬間、僕と彼女の間からガラス板も石落としまでの遠い距離も、全てが消失したかのように思えた。僕と彼女は確かに、同じ空間で同じ思いを共有していた。より良いアングルを探しながら僕は、この写真をどうやって彼女に渡せばいいのだろうと考えていた。つい先刻浮かび上がらなかった妄想が、再び首を擡げるのを感じていた。
背後の女の子に声をかけられたのか、彼女は何か言葉を発して背後を振り向いた。そしてその後にもう一度僕を覗き込んで、何かを言おうとしたように見えた。しかしそれは気のせいだったのかもしれない。あらゆる時間は過ぎ去った瞬間に過去に変化し、過去は過去である限り、誰もそのときに起こった出来事を真実だと証明することができなくなる。たとえ誰かが過去を真実だと証明できたとしても、僕はあの瞬間の僕をどうしたって信じることはできない。
撮影した写真を彼女に渡す必要があるだろうと門櫓に再び赴くと、そこにはもう、彼女の姿はなかった。すれ違ったのだろうかと石落としを覗いてみても、もちろんそこに彼女の姿はなかった。先ほどまで僕が立っていた場所には、ただ空っぽの空間があるだけだった。もう陽の光さえ射していない。門櫓を急いで飛び出し、階段の上から三の丸広場を眺めても彼女の姿はなかった。すべてが幻だったかのように消えてしまっていた。スマートフォンを開いて確かめることは、恐ろしくてできそうになかった。
城内を隅々まで歩き回ってみたものの、結局彼女を見つけることはできなかった。インスタグラマーになることを目指しているらしい彼女が行きそうな場所を考えてみたが、僕にはまるで見当もつかなかった。歩き回るうちに、いつしか本丸の跡地にたどり着いた。そこは最早、過去この美しい城において最も重要だった建物があった場所とは思えないくらい、紅葉の美しい場所に変わっていた。森の中にあるのかと錯覚してしまいそうな小道を抜けた先では、過去城下町であったであろう金沢の街並みを見下ろすことができた。人々の生活がそこにはあった。誰も、僕がこの場所から彼らのことを見ていることなど想像もしていないだろう。この光景は本来、金沢城の城主だけが見ていた景色に違いない。その事実だけが、この場所に本丸があったのだということを僕に伝えていた。そしてもちろんここにも彼女の姿はない。この場所にいないならばもう、彼女は城内にはいないのであろうと思った。
金沢城は何度も火災に見舞われてきた。ある時は落雷により、ある時は街の火災の影響により、多くの建物が失われては、また建て直されてきた。だが、僕が立っているこの場所にあった建物だけが、建て直されることなく、いまなお跡地として晒されている。見下ろす街並みは金沢城と同じくらい美しいものであったが、本丸が建て直されなかったという事実が、その光景に僅かな物悲しさを加えていた。
すぐに閉園の時間がやってきた。追い出されるようにして城を後にした僕は、隣り合うようにして建てられた美術館の敷地から、夜の闇に沈んだ金沢城を見上げている。見つめても見つめても、最早そこにあの美しい城があることを確かめることはできなかった。もしかしたら探せばどこからか、ライトアップされた城を眺めることができるのかもしれない。だけどそれを探すだけの気力がもう、僕には残されていなかった。ホテルに戻ろうという考えも浮かんできたが、他にどこに行く気もないくせに、帰るのはもったいない気がしていた。
昔から僕は、何かを捨てることが苦手だった。そもそも捨てられるものなどなかった。僕は何一つとして捨てられずにここまできてしまった。だけど、何を捨てることもできずにいるために、すべて元から持っていなかったのだと自分に信じ込ませることは得意だった。そうすることでしか、失ったものを正当化できなかったのだ。もしかすると、それはあの本丸の姿に通じるものではないかと信じる気持ちがある。もしそうであるならば、僕という人間も少しはマシな存在に思えるのではないかと思ったし、同時に僕とすべてを捨てたフリをして夢に生きる人々と、何も違いはないのではないかとも思えた。
夢のために青春を捨て、地位を捨て、安定した生活を捨て、そうして努力する人々は本当に、すべてを捨てているのか。彼らも夢が叶わなかったときには、こんな筈じゃなかった、こんな貧乏で惨めな生活耐えられないと口にするのではないか。成功する未来を期待できているからこそ、成功したからこそ、すべてを捨てたなどと口にできているのではないか。彼らは何かを捨てたのではなく、あくまで捨てたフリをしているだけではないのか。
もしそうであるならば、捨てることができないものをそれでも失い、元々なかったものだと自分に必死に信じ込ませて今を生きようとしている僕の方が、何かを捨てたということになるのではないだろうか。
だが、結局僕は僕のなした選択に対して、夢を追い切れていない、甘えた選択だったと負い目を感じている。きっとその思いはこれからも変わることはないだろうという予感がいつでもあった。
城は闇の中で何も言わずにただそこにあり続けている。きっと、いつかふとした瞬間に僕がこの旅のことを思い出したときにも、変わらずにこの場所に聳え続けているのだろう。闇と石垣と木々に隠されたそれを見上げる。この巨大なものの前でならば、僕と僕が羨む人々の違いなど矮小に思えてくるのではないかと期待した。しかし、城はもう見えなかったし、どうしたって結局僕の負い目は僕のもののままだった。
このままここにいれば、あの女の子が姿を現すのではないか。あれだけ探し回っても見つからなかった彼女が、それでも再び現れることを期待している自分にふと気がついた。僕は彼女の写真を撮った。だが、その写真を彼女はまだ手にしていない。そうであるならば彼女は現れるべきだと考えているらしかった。だがそれに気づいた瞬間にはもう、そんなことはもうあり得ないのだということにも気づいていた。
周囲にはもう、誰もいなかった。バス停を探して歩くと、最終バスも出た後だった。仕方なくスマートフォンでホテルの位置を表示すると、五キロも離れていた。ここから歩いて帰ることを考えると、目眩がした。はじめからバスに乗っていればよかったのだ。目的も何もなく、ただ無闇な期待だけを持って無為な時間を過ごすことに、どんな意味があったというのだろうか。僕はいつもこうだ。こんなことをしてばかりだ。そろそろ気づいて、捨てられるものを捨てなくてはならない。
そう思ってもしかし、僕にはしっかりと分かっていた。僕は残りの三日間も、この城にやってくるだろう。そして、あの門櫓と石落としの先に見えるあの場所とを、何度も往復するのだ。彼女が僕を探していることに期待をして、僕は何度でもそれを繰り返すに違いない。
そこまで考えてふと、僕は再び一つの恐ろしい仮説を思い出さずにはいられなかった。彼女は実在したのだろうか。僕は現実に、彼女の写真を撮ったのだろうか。そもそもあの女の子は、本当にあの場所にいたのだろうか。
バスで行けば十五分ほどの宿泊しているホテルまで、残り五十四分もかかるという表示が、闇の中で鮮やかに映し出されている。そして、その画面から少しだけスクロールすれば、彼女の写真があるかどうかを確認することができる。恐ろしさと反比例するように、それは簡単なことだった。
背後では楓や銀杏をはじめとする木々が、秋の色に鮮やかに染まっている。ほとんどの木の名前は分からなかった。それが赤い、ということ以外に興味は沸かなかった。ただ、その赤の中に、赤に包まれた城の中に昼間、自分が身を置いていたのだというその事実だけが、僕にとっては重要なものだといえた。
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