訃報を知り、バカラを使う
先日、10年前に退職した会社の後輩から連絡があった。
「元会長が亡くなりました」と。
私は10年前、地元の企業に勤め、総務部で秘書的業務に携わっていた。
その時に仕えていたのが、元会長である。
当時、その方(以降、会長とする)は80代、引退してもいい年齢とも思われたが、会長職に就き、毎日定時出勤・退勤していた。
いつだったか…もう私が結婚で退職すると伝えたあとだったか、それともまだ結婚相手もいない時期だったか、記憶が定かではないが、気まぐれかお祝いの意があったのか、ペアのバカラグラスの一つを私にポンとくれた。なお、一つは家で使うわ〜と言って、会長が家に持ち帰られた。箱は私にくれたから、グラスを紙袋に無造作にぽんと入れて。
『ペアでくれたらいいのに』なんて、一瞬思ったけれど、当時30歳そこそこの地方住みのOLには、バカラのグラスは、石原裕次郎とか昭和の大スターがウィスキー飲む高そうなグラス、自分で買う発想はなく、お金持ちの家にあるキラキラしたグラスというイメージしかなかったものだから、「え〜!こんな高価な物、私(なんかが)頂いていいんですか!?」といったような気がする。
余談だが、会長は私にくれる前に、『このペアグラス幾らくらいするか調べてくないか?』と言い、当時ネットで検索した。ショッピングサイトで12,000円くらいで販売されていた。(じつは、この調べた紙が、バカラの箱の中に入っていたw当時の私?会長??開けて思わずクスッとしてしまった。そんななんてことないやり取りも、鮮明に覚えていて自分でも驚いた。)
とはいえ、くれるというので、ありがたく頂戴した。
バカラの赤いしっかりした箱に入ったペアグラスの1つを、大事に大事に家に持ち帰り、いつかハレの日に使おう、と思ってしまい込んでいた。
夫の転勤に従い、この10年で4回引っ越しをした。荷造りをするたびに、その赤いバカラの箱を丁寧に段ボール箱にしまい、開けることさえしなかった。「いつか使おう」と思っていたけれど、退職して結婚、すぐに妊娠、子育てが始まり、授乳が終わったら、と思ったけど、程なく2人目を妊娠。お酒の飲めない期間と、小さな子どもが2人いる生活で、バカラのグラスにお酒を注いで嗜もうなんていう心の余裕と発想は全く生まれてこなかった。ただ、なんとなく開けることも手放すこともできないまま、段ボールの中にバカラの箱は眠っていた。
この春、ようやく下の子が小学生になり、子どもがふたりとも小学生になり、時間的・精神的余裕ができ、家じゅうの整理整頓に取り掛かった。
学習机を購入したのもあり、子供部屋がほしい!一人で寝たい!の要望にいつでも応えられるように、とにかく家のありとあらゆるところにあるものを全部出し、仕分けし、再分類し、収納していた。
そんな矢先、冒頭の訃報である。
すぐにあのバカラの箱と、片付け途中に発掘した、私の退職時に取った写真の会長の笑顔が頭にぱぁっと浮かんだ。
今、私は地元から飛行機を乗り継いで半日程度かかる場所に住んでいる。
高齢で、すでに現役を退いていた会長の葬儀は、身内だけの家族葬とのこと。
会長を偲び、バカラの箱を頂いた時ぶりに開けた。
薄紙に包まれたグラスを取り出し、重厚なグラスを慎重に洗った。
昼間だったから、お酒はまだ注げない。
とりあえず、麦茶を注いで飲んでみた。
手にずっしり重みを感じて、少なくとも麦茶を飲むグラスではないことはわかった。
会長は、このグラスで何か飲んだろうか。
このグラスはまだ、あのご自宅にあるのだろうか。
仕えていた頃の出来事を思い出しながら、バカラのグラスを眺めた。