お題

#部活の思い出

辛かった練習のエピソードや部活終わりに仲間と遊んだこと、卒業後も続く部活仲間との友情の話など、あなたの青春の思い出を教えてください!

新着の記事一覧

登頂に何倍もの熱意を燃やしながら背広で軽快に登った先人たちに②

学習院大学山岳部昭和63年卒 棚橋靖  4時、我々3人は核心部のクーロアールを目指して出発した。 相棒はラリー・スタイナー(※2)とマーク・レドウィッツ(※3)。 2人とも経験豊かなカナダ人ガイドである。 インドのシブリン峰(Shivling, 6432m)の岩壁をアルパイン・スタイルで登ったこともあるラリーだが、冬に2回アルバータにトライしたが、悪天のため敗退していると言う。  クーロアールは陽が当たり始めると落石の嵐となった。 今年のカナダは雪が多く、そのせいか、クー

柔道沼にハマって投げ飛ばされた話 中学生編

お風呂をキャンセルしたところ 嫁さんから 「納豆くせぇ(笑)」 「おまけに洗ってねえ犬の匂いがする(笑)」 と言われちょっと凹んたと 以前の記事でカミングアウトした49歳です くやしいのう😭くやしいのう😭 (T ^ T) さて今回は 嫁さんの「納豆くせえ(笑)」 という一言から 同級生の納豆臭かった柔道着の記憶 それと共にが蘇った 柔道沼にハマって 投げ飛ばされた話 中学生編 を書かせていただこうと思います(笑) いつも嫁さんに 言葉でも行動でも コテンパンにヤラレ

登頂に何倍もの熱意を燃やしながら背広で軽快に登った先人たちに①

学習院大学山岳部昭和63年卒 棚橋靖 オーロラを望んで出発、Ⅴ級の岩場を頂稜へ 何とか2~3時間は眠れたと思う。 コンロに火をつけた音がする。 ラリーがお茶を沸かしてくれているのだ。 僕はもう少し惰眠をむさぼりたい。 できることなら今日の登攀をなくしてしまえれば、と思う。天気が悪いとか、なんとか…。 もちろん登れるかどうかは今日1日のワンチャンスだとは重々承知しているのだが…。  2日前、学習院山岳部OB隊とカナダ人ガイドの計5人は、アルバータの核心部、クーロアール(※1

大自然が彩る岩と氷の王国ロッキー山脈の大カールへ③

学習院大学山岳部昭和40年卒 小森泰三  アプローチが比較的容易である割には登られていないのは、カナダのマッターホルンとして人気の高いアッシニポイント峰のルート・グレード5.2に比べアルバータ峰は5.7とエキスパート向きであること。 そしてカナディアン・ロッキー自体が山域は広くても高さが4000mに達しないというような理由によるものだろう。  この山域にはアルバータ峰以外にも難しい山ならノース・トウィンズの北壁が小屋から半日の距離にある。 そして今回我々も登ったウーリーピ

25年ぶりに高校への通学路を走りながら思ったこと

三連休に、久しぶりに実家に帰りました。 私の生まれ育った愛知県岡崎市は、高校卒業まで過ごしていた場所。 最近では、祖母の介護などの影響もあり、家族が集まるときは母方の実家である「宮崎」になっていました。そのため、約3年ぶりの帰郷です。 そんな中で、ふと「25年ぶりに高校への通学路をランニングで通ってみた」のですが、なんだかエモい気持ちになるとともに、ずっと忘れていたことを思い出したり、不思議な気持ちになりました。 本日は、そんな個人的かつ、ゆるいお話ではありますが、感じ

大自然が彩る岩と氷の王国ロッキー山脈の大カールへ②

学習院大学山岳部昭和40年卒 小森泰三  アルバータ峰(3616m)はちょうど巨大な船を逆さに伏せたような形で、小屋からはその南北に長い横っ腹をさらした怪異な姿が目の前に眺められ、非常に印象的である。 標高2700mの小屋は、アルバータ峰を一端とし、ウーリーピークを頂点として、ノーストゥィンズなどの峰々を他の一端とする馬蹄型のカール(アサバスカ氷河源頭)の中央に聳えるリトル・アルバータ峰の基部上部に立っている。  名前通り、大きさこそずっと小さいが、このピークはアルバータ

大自然が彩る岩と氷の王国ロッキー山脈の大カールへ①

学習院大学山岳部昭和40年卒 小森泰三 登攀技術よりも山を見る広い視野が必要な静寂郷 アイガー東山稜初登攀で有名なヘル(Herr)・マキ=槇有恒(まきありつね)氏率いる日本・スイス合同隊によって1925年に初登頂されたアルバータ峰(3619m)。 カナディアン・ロッキーの中でも、最も人の集まるバンフ・ジャスパー・エリアにあり、この2つの国立公園を結ぶアイスフィールド・パークウェーから2日(歩行10時間)で、その山麓に達することができる。  初日はハイウェイから並行して流れ

元美術部員が観た「ブルーピリオド」落書き映画鑑賞

アマゾンプライムに新しく追加されていたので早速視聴しました。 しかも今なら無料。 落書き映画鑑賞の絵日記(全体) ストーリー 割と見た目リア充な金髪高校生(主人公)が、自分が本当にしたい事(絵を描く事)に出会った時に、進学先を美大にしてもいいのかと葛藤したりそれでも止められない絵に対して情熱を傾ける姿が描かれています。 公式サイトの説明はこちら↓ 元美術部員は特に観て!エモいよ! 美術室の映像に心が震えました。え、懐かしい…(じ~ん)。 元美術部員で良かったなと心

10年、体育会系だったけど、ルールの曖昧な世界では「無理しないで」と思う。

 中学から大学までずっと体育会系。とくに最後の4年間は強烈な部活に在籍。あのしんどい時代に二度と戻りたくはないですが、あの頃の経験に支えられていることはたくさんあります。  ただ、社会にでて色々な出会いを重ねた今は、4番でピッチャーでキャプテンの高校球児に感動しつつも、どうか社会にでてからは無理しないで..と祈る気持ちが強くなりました(全くもって余計なお世話なので、現役選手にそんなこと口が裂けても言いませんが!)。 「できるまでやれ」「できるやつが一番やれ」 「できるまでや

アルバータ峰・「伝説の銀のピッケル」について②

学習院大学山岳部昭和33年卒 芳賀孝郎 安住の地、カナダ、ジャスパーイエローヘッド博物館へ 私はこの登山の帰路、ピッケルがカナダの強い要請で、ロッキーのジャスパーイエローヘッド博物館に戻ったことを聞いた。 「折れたピッケル」と30年ぶりに対面した。  23年間の山頂、48年間のニューヨークを経て、ビッケルは71年ぶりにアルバータ山への出発基地ジャスパーに戻っていた。 石突きの行方 帰国後、岳父の遺したアルバムの中に、1965年長野隊の頂上での記録写真を見つけた。  折れた

アルバータ峰・「伝説の銀のピッケル」について①

学習院大学山岳部昭和33年卒 芳賀孝郎  この絵本は、以下に記すアルバータ山初登頂の記録とピッケルの話しをもとに、私の妻芳賀淳子が絵と文にしたものである。  1925年、日本山岳会初の海外遠征は、カナディアンロッキーの未踏峰・アルバータ(3619m)を目指し、同年7月、初登頂した。 槇有恒隊長に率いられた慶應義塾4名(槇有恒・橋本静一・早川種三・三田幸夫)、学習院2名(岡部長量・波多野正信)、スイス人ガイド3名からなる隊であった。  遠征隊の後援者・細川護立侯爵から、登頂

内向的な私が演劇部で得たこと

こんにちは。Aoです。 いつかこのことを記事にしたいと思ってた!演劇について。 内向的な性格の私は、演劇、ましてや役者なんていうキラキラした世界とは無縁だと思っていた。 そんな私だったが、なんやかんやで高校三年生で引退するまでは、部活動で演劇をしていた。 もしあなたが演劇の世界に飛び込むか迷っているなら、もし内向的がゆえに悩んでいるのなら、ぜひこの記事を参考にしてほしい。 なぜ内向的な私が演劇をやろうなんて思ったのか私は将来海外のアニメーションスタジオで働くことが中学生

アルバータ山のピッケルものがたり⑯

芳賀淳子(芳賀孝郎 学習院大学山岳部昭和33年卒 芳賀孝郎妻女)  2000年、ジャスパーでの祝典です。 「アルバータ登頂75周年おめでとうございます。」 「ピッケルの復元、おめでとう!!」 ぼくはもとの一本の姿に戻って、高々と掲げられました。 集まった人々から拍手と歓声がわきあがりました。 国境を超えた人々の友情、優しさ、情熱に支えられて、ぼくはこの日を迎えることができました。 「アルバータ山のピッケルものがたり⑮」から #学習院大学 #学習院高等科 #学習院大学山岳

アルバータ山のピッケルものがたり⑮

芳賀淳子(芳賀孝郎 学習院大学山岳部昭和33年卒 芳賀孝郎妻女)  東京の俊太郎さんに長野から連絡が入りました。 「ぼくたちは山頂でピッケルの折れた石突き部分をひろい、日本に持ち帰りました。 あなたの書いたものを読むと、あれは日本隊のピッケルの下部ではないかと初めて気づき、大騒ぎになっています。」 「アルバータ山のピッケルものがたり⑭」から 「アルバータ山のピッケルものがたり⑯」へ #学習院大学 #学習院高等科 #学習院大学山岳部 #学習院高等科山岳部 #学習院山岳部

朝風呂に入って全国大会で負けたサッカー部

↑ 昨日、温泉施設でサッカーのマンガを読んでいたら、 高校時代に聞いた話を思い出しました。 部活の全国大会ってことは、ホテルなどの宿舎に泊まるわけですよ。 きっと、大浴場があったのでしょう。 「朝風呂に入ろうぜ!」 サッカー部の面々は、朝風呂に入ったのだそう。 すると、試合中に身体が全く動かなかったとさ…。 そして、一回戦で敗退したという話。 昨日は温泉で身体をほぐしたことを書きました。 以前、力を抜く方が難しいと書きました。 温泉や、風呂のリラックス効果は絶

「日本山岳会 海外登山報告会 2025」のご案内

学習院山桜会 運営委員会  2025年3月15日(土)の13時~19時半まで、芝浦工業大学豊洲キャンパス交流棟501号教室にて「日本山岳会 海外登山報告会 2025」が開催されます。 会費:学生無料、社会人は1000円 (18時からの懇親会出席の場合は食事代社会人2000円、学生1000円追加です) 共 催:芝浦工業大学山岳部、日本山岳会(総務委員会、ユースクラブ、海外登山助成委員会) 「海外登山」に関心のある皆さま。「感動」に興味のある皆さま。 最新の貴重な体験の報

再生

日本大学山岳部のPVの紹介

学習院大学山岳部 令和2年卒 山上耀一郎 コロナ禍で活動が思うようにできなかったときに、出来ることをやってきたこと。 これが山岳部の活動の核心部です。

日本大学山岳部創部100周年記念祝賀会に参加して

学習院大学山岳部 令和2年卒 山上耀一郎  日本大学山岳部の皆さま、100周年おめでとうございます。  私たち学習院山岳部も6年前に100周年記念式典を開催しました。 そのときは現役時代で、ただ行事の進行の手伝いをしていただけ。 今回はコーチとして参加していて、いろいろと参考になることがありました。  2025年2月16日、「日本大学山岳部創部100周年記念祝賀会」が、市ヶ谷のアルカディア市ヶ谷(私学会館)で行われました。出席者は、日本大学山岳部関係者だけでなく、青山学

アルバータ山のピッケルものがたり⑭

芳賀淳子(芳賀孝郎 学習院大学山岳部昭和33年卒 芳賀孝郎妻女)  日本に帰った俊太郎さんが、おじいさんの遺したアルバータ山の資料を見ていたときのことです。 「あれ、これは?」 30年前、アルバータ山に登った長野隊の隊員が山頂でピッケルの折れた石突き部分を手に持っている古い写真に目がとまりました。 俊太郎さんは、山岳会報誌に書きました。 「『伝説の銀のピッケル』は折れていて、ピッケルの上部は今ジャスパーにあります。石突き部分は山頂にいまも眠っているのだろうか。それとも登頂者

スポ根はノンフィクション

#部活の思い出 こんにちは ミラクルパンダです。 皆さんは『スポ根』という言葉をご存知でしょうか。 今では失われつつある言葉ですが、スポーツと根性を掛け合わせた、造語です。 『スポ根』を知っている人は、有名なアニメが思い浮かぶと思います これから綴るのは、 今から20数年前に中学生だった、陸上部の実話です。 「水飲むな!」「体を冷やすな!」 夏休みの部活中、先輩から激が飛びます 注⚠️夏休みです 真夏にジャージ上下着たまま、アップでグラウンド周囲を5キロほど

アルバータ山のピッケルものがたり⑬

芳賀淳子(芳賀孝郎 学習院大学山岳部昭和33年卒 芳賀孝郎妻女)  博物館のホーンさんは俊太郎さんに話しました。 「『伝説の銀のピッケル』はこのジャスパーから出発して、アルバータ山初登頂したのですから、ニューヨークよりこの地にいるのがふさわしいとわたしたちは考えました。」 「わたしはピッケルをジャスパーにもどす交渉をしに、ニューヨークへ行きました。」 ピッケルは机の下のごたごたした荷物の中にありました。 思わずひっぱり出し、ほこりを払い、抱いて言いました。『早くわたしたちの

- カナダの日常 vol.26- ダンシャリ!

衣類を捨てるのが下手 私、捨てられないオジサンです。衣類ですね、ほぼ。特に近年。擦り切れた靴下とか穴の開いたパンツを平気で履いていたり。あと、なんでか知らないけれど、高校時代の学校ジャージを愛用していたり。部活のハーフパンツとか。信じられませんね。だからと言って、ゴミ屋敷って話ではないんですけどね。着なくなった衣類を捨てないんですよ、着ないくせにね。 第三者委員会?による断捨離 ということなので、定期的に第三者委員会の監査が入ります。第二者か、家の人です。早い話、強制

アルバータ山のピッケルものがたり⑫

芳賀淳子(芳賀孝郎 学習院大学山岳部昭和33年卒 芳賀孝郎妻女)  ここは、カナダのジャスパー・イエローヘッド博物館です。 ぼくはニューヨークからここに移り、日本隊で仲間だった山の道具たちと一緒に展示されています。 30年ぶりにぼくに会いに来てくれた俊太郎さんは、たのもしい登山家になっていました。 「きみの石突き部分を探しに、アルバータ山に登ってきたところだ。でも、頂上は雪が深くて見つけることはできなかった。」 「アルバータ山のピッケルものがたり⑪」から 「アルバータ山

2/15引退後に監督と話す

 数年前のこと。    高校野球で求めていた結果を残せず引退、進学、就職をした後にふとしたことで監督と食事をする機会がありました。 甲子園に行けると思っていたか? 監督、僕の答えは一致していました。  答えは「NO 」です。  情けないといえばそうなのですが、指導者と選手の双方がその可能性は無いと考えていました。 駒が足りない 良い選手はいたと思っています。  ただ、どうしても選手層が薄くそれが高い壁となってしまっていたのです。東京や大阪、神奈川のような超が付くほど

肩に刻まれた青春の痛みと寄せ書きのTシャツが教えてくれた、仲間の絆と新たな夢への一歩

野球部の仲間達 高校3年生の夏、息子隆則が野球を辞める決断をした時のことを、 私は今でも鮮明に覚えています。 20年以上も前の話ですが、その時の彼の心情を思うと、 胸が締め付けられるような痛みが蘇ってくるのです。 隆則には兄がいます。兄は名門野球校でエースでキャプテン、そして 4番打者という輝かしい存在でした。ガタイもよく、誰からも一目置かれる存在であった兄の影響を受け、隆則も迷わず野球部に入部しました。 中学時代には高跳びで県一位という成績を残すほど運動神経に恵まれてい

アルバータ山のピッケルものがたり⑪

芳賀淳子(芳賀孝郎 学習院大学山岳部昭和33年卒 芳賀孝郎妻女)  ある日のこと、突然ぼくは人の声を聞きました。 23年ぶりの懐かしい人間の声です。 「ピッケルだ、『伝説の銀のピッケル』じゃないか!」 ぼくに駆けよったのは、アメリカ隊の2人でした。 いつの間にか、ぼくは『銀のピッケル』と呼ばれていることをこのときはじめて知りました。 「このままにして朽ちてしまうより、持ち帰ろう!」 2人は力いっぱいぼくを引き抜こうとしました。「痛い!」 体の下三分の一は凍りついたまま岩の中

バレンタインの個人的な思い出。

今日はバレンタインデー。 高校生くらいまでは、一大イベントだったけれど、今はそれほど。 チョコレートを買うこともなく、出先で偶然通りかかったお餅屋さんで 豆大福と桜餅を購入。(お店を一度は通り過ぎたものの、無性に気になって気がつけば手には餅二つ。) 駅のホームで大福を頬張りながら、過去のバレンタインの日の思い出を思い返してみた。 私は中学生のときに、奇しくも男の子の方から、バレンタインにプレゼントを受け取ったことがある。 平成の時代には少し流行り?もあったのかもしれない。

光る水面が美しいから

 高校生の頃、所属していたオーケストラ部が大変実力社会で、1年生の頃にたまたまコンクールメンバーのオーディションを勝ち抜いた私は、それからずっとその部活動の中で暗闇に浸っていた。  一番苦しかったのは、小さなレッスン室で、7人の同学年のフルートパートのメンバーと円を作り、話し合いという名の元私のメンタルを滅多刺しにする会が行われたことだ。同じパートには唯一心を許せる友がいたが、その会には偶然にも彼女はいなかった。私の嫌いなところを一人一人が連ねていく。私は全ての言葉を受け止め

アルバータ山のピッケルものがたり⑩

芳賀淳子(芳賀孝郎 学習院大学山岳部昭和33年卒 芳賀孝郎妻女)  ぼくは、岩を積み上げたケルンにしっかりと立てられました。 「さようなら、ありがとう」とぼくは大きな声で叫び登山隊と別れました。 それから、来る日も来る日もアルバータ山の頂上に立ちつづけていました。 「アルバータ山のピッケルものがたり⑨」から 「アルバータ山のピッケルものがたり⑪」へ #学習院大学 #学習院高等科 #学習院大学山岳部 #学習院高等科山岳部 #学習院山岳部 #学習院大学あるける同好会 #長

アルバータ山のピッケルものがたり⑨

芳賀淳子(芳賀孝郎 学習院大学山岳部昭和33年卒 芳賀孝郎妻女)  大きな岩が頭上をかすめてビューンという音をたてて落ちてきたり、足元の岩が崩れ落ちたりするので、隊員は一瞬の油断も許されません。 たがいの身体をロープで結び、声をかけあい、支えあって岩をよじ登りました。 16時間の厳しい登攀を続け、頂上に達したのは、午後7時半でした。 狭い頂上で隊員は喜びにあふれ、握手を交わしました。 槇隊長は「わたしたちは、遠く東の国、日本からこの山に呼ばれてやってきました。」ということば

イップスって知ってますか?

弓道部 高校へ入学してから弓道部に入部し、みんな一斉スタートということもあり、先輩や先生から教えてもらい、楽しくやっていた。 1年生の中でもコツを覚えて上達するのは早かったような気がするが、2年生の途中くらいから伸びなくなってきた。 試合の団体のメンバーにも選ばれず、コツコツと練習をしてきた子たちが中心となって出るようになった。 決して練習をさぼっていたわけではないのだが、ある頃から集中すべき場面で、的を正しい姿勢で射ることができなくなったのだ。 弓構えは3つの動作【取

世界中の空をぎゅっとすると虹になる

いつも夕暮れの空を見るたびに、高3の秋の日と美術部の恩師の話を思い出す。 美術部に所属していた当時、自分はAO入試で希望大学に受かり、腕を落とさないために放課後は美術室で友人をモデルにデッサンを毎日していた。 その日も描き終えるにキリのいい時間になったのもあって、モデルをしてくれた友人と顧問の美術教師と他愛もないおしゃべりをしながら片づけを済ませ、みんなで美術室を出た。 すると、落ちついたオレンジの西日が廊下一面に射しており、美術室のある4階の校舎から見えた夕焼けのグラデー

阿弥陀岳遭難の墓参報告(2025年)

学習院山桜会 会長 加藤洋 学習院大学山岳部 昭和57年卒  2015年2月9日に発生した、学習院大学山岳部の阿弥陀岳遭難事故から10年が過ぎました。  今年も、事故当日にあたる9日(日)と昨日11日(火)に亡くなった吉田周平さんと土山莉里香さんを悼み、学習院山桜会有志による墓参を行いました。  昨日は、現在の部長、コーチ。吉田周平さん、土山莉里香さんの現役時代の仲間、運営委員会、学習院山桜会の仲間とともに、二人の墓所を訪れ、この事故を風化させないことを誓いました。

趣味×物販=最強!? ‘学生時代の熱中’を稼ぎに繋げる副業術

いま副業を考えていて「自分なんかに物販はできるのかな…」と不安を抱えていたりしませんか。私も副業と呼ばれるものを一通り試して、なかなか稼げなかった一人です。ブログやSNS運用、アフィリエイト、投資など、ネットでよく話題になるものは一度は触れましたが、まったく成果が出ない時期もありました。 しかし、私が唯一しっくりきて、結果に繋がったのが物販ビジネスでした。その理由を振り返ってみると、「自分の経験や興味のあるモノを扱ったからにほかならない」と気づいたんです。実は、物販ほど「学

アルバータ山のピッケルものがたり⑧

芳賀淳子(芳賀孝郎 学習院大学山岳部昭和33年卒 芳賀孝郎妻女)  7日目にはベースキャンプが設営されました。 隊員はアルバータ山のよく見える地点から双眼鏡で登山ルートを探しました。 7月21日の夜明け、山頂を目指して登攀がはじまりました。  隊員に背負われたぼくは、高く登るにつれてこの山が危険でいっぱいなのだ、と思い知らされました。 「アルバータ山のピッケルものがたり⑦」から 「アルバータ山のピッケルものがたり⑨」へ #学習院大学 #学習院高等科 #学習院大学山岳部

アルバータ山のピッケルものがたり⑦

芳賀淳子(芳賀孝郎 学習院大学山岳部昭和33年卒 芳賀孝郎妻女)  7月11日、いよいよアルバータ山をめざして出発です。 9人の登山隊、コックとキッチンボーイ、馬40頭と馬方たち、一行はジャスパーを後にしました。 キャラバンは、氷河に源を発するアサバスカ河をさかのぼりました。 あるときは山火事にあいました。 たくさんいるクマに注意しながら、夜は深い森にテントをはりました。 「アルバータ山のピッケルものがたり⑥」から 「アルバータ山のピッケルものがたり⑧」へ #学習院大

アルバータ山のピッケルものがたり⑥

芳賀淳子(芳賀孝郎 学習院大学山岳部昭和33年卒 芳賀孝郎妻女)  登山隊がカナダ・アルバータ州のジャスパーに到着したのは7月7日。  町の人々は遠く東洋の国から来た日本人が難関のアルバータ山に登ると聞いて大歓迎でした。 町に滞在していたスイス人ガイド3人も登山隊に加わることになりました。 「アルバータ山のピッケルものがたり⑤」から 「アルバータ山のピッケルものがたり⑦」へ #学習院大学 #学習院高等科 #学習院大学山岳部 #学習院高等科山岳部 #学習院山岳部 #学習

ドラム修行ふたたび:基礎打ち台

スティックをゲットしたら、次には何か叩くものが欲しくなります。 とりあえず、いらなくなった雑誌を重ねたものや、分厚い本を叩くっていう手もあるけど、やはりそのうちには、ちゃんと決めた練習台が必要。 今は楽器店に行けば、練習用パッドがたくさん売ってありますね。 とても便利。 膝につけて叩くタイプや、スタンドにセットして叩くタイプなど。 でも私の記憶の中の基礎打ち台は、先輩たちの手作りでした。 分厚い木材の切れ端を積み重ねて固定して、打面の部分には、卓球のラケット表面につ

アルバータ山のピッケルものがたり⑤

芳賀淳子(芳賀孝郎 学習院大学山岳部昭和33年卒 芳賀孝郎妻女)  1925年6月9日、登山隊は横浜港から船でカナダへ向け出発しました。 登山隊を支援してきた細川侯は、見送りにきて「このピッケルをわたしの代わりにアルバータ山の頂上に立ててきてください。 私の頭文字をピッケルの頭部に金で刻印しました。  細川護立(MoriTatsu Hosokawa)のM.T.H.です。」と言ってぼくを登山隊に託しました。 「アルバータ山のピッケルものがたり④」から 「アルバータ山のピッ

アルバータ山のピッケルものがたり④

芳賀淳子(芳賀孝郎 学習院大学山岳部昭和33年卒 芳賀孝郎妻女)  アルバータ山は高さ3619m、氷河からそそり立つ岩壁は急峻で岩肌はもろく、世界中からの登山家を寄せ付けないカナディアン・ロッキーの未踏峰でした。 槇さんは登ろうと決心し、仲間5人を集め登山隊を編成しました。 「アルバータ山のピッケルものがたり③」から 「アルバータ山のピッケルものがたり⑤」へ #学習院大学 #学習院高等科 #学習院大学山岳部 #学習院高等科山岳部 #学習院山岳部 #学習院大学あるける同

高校ラグビーの思い出

高校を卒業したのがもう16年前の事だ。 もうすぐ結婚10周年。 そう思うと結婚するの早かったなあ。 ずっと自分語りを記録する手段を持っていなかったせいで、未だに高校ラグビーの引退について、ずるずると伸びに伸びたラーメンのような思いを引きずっているので、ここで書き起こして供養することにしようと思う。 高校ラグビー部員の宿命大半の高校ラグビー選手の集大成は、大阪の「花園ラグビー競技場」で行われる全国高等学校ラグビーフットボール大会、通称「花園」、へと続く県予選である。

アルバータ山のピッケルものがたり③

芳賀淳子(芳賀孝郎 学習院大学山岳部昭和33年卒 芳賀孝郎妻女)  その登山隊の隊長は槇有恒(まきありつね)さんでした。  当時、スイス・アルプスのアイガー東山稜を初登攀して世界から賞賛された登山家です。 その経験を生かして日本の冬山登山を仲間に教えました。 ある日、槇さんの山の友だち細川護立(ほそかわもりたつ)侯爵はアルバータ山の写真の載っているガイドブックを見せて「登ってみないか?」といいました。 「アルバータ山のピッケルものがたり②」から 「アルバータ山のピッケル

アルバータ山のピッケルものがたり②

芳賀淳子(芳賀孝郎 学習院大学山岳部昭和33年卒 芳賀孝郎妻女)  ぼくはそのピッケルです。  これからぼくの身の上に起こったできごとをお話ししましょう。 ぼくはスイスで生まれ、日本にもらわれてきました。 岩や氷の山で足場を作ったり、体を支えたりして登山者を助ける道具です。 1925年、日本で初めての海外登山遠征隊とカナディアン・ロッキーのアルバータ山に登りました。 隊員だった俊太郎さんのおじいさんはよく覚えていますよ。 「アルバータ山のピッケルものがたり①」から 「ア

アルバータ山のピッケルものがたり①

芳賀淳子(芳賀孝郎 学習院大学山岳部昭和33年卒 芳賀孝郎妻女)  「アルバータ山のピッケルにとうとう会えた。でも、折れていたなんて知らなかった。何があったんだろう?」 俊太郎少年はニューヨークの山岳博物館を訪ねていた。 「1925年のアルバータ峰初登頂」から 「アルバータ山のピッケルものがたり②」へ #学習院大学 #学習院高等科 #学習院大学山岳部 #学習院高等科山岳部 #学習院山岳部 #学習院大学あるける同好会 #長野高校山岳部 #学習院山桜会 #山桜会 #大学山

ヒステリック女が部活を崩壊させかけている話し#1

今回はヒステリック女が僕の所属している部活である放送部を崩壊させかけている話しをしようと思う。 メイン登場人物紹介1、N子 このN子が部活を崩壊させかけている張本人。鬼ヒステリック女である。 2、赤松(僕) N子と結構親密(過去) みんなで仲良くしたいと思ってる。 3、T子 T子は一番放送部の人間として仕事ができる。商業研究部も掛け持ちしている N子をヒステリック女として大爆発させた人間 4、Hちゃん 可愛い。放送部にいるとは思えないかわいさしてる。 N子とは小学校か

「アルバータ峰初登頂100周年記念登山」が「桜友会報」に取り上げられました

学習院山桜会 会長 加藤洋 学習院大学山岳部 昭和57年卒  今年は私たち学習院山岳部にとって、1925年に行われた最初の海外遠征(カナディアン・ロッキーのアルバータ峰)から100周年となります。  この夏、私ども学習院山桜会の仲間の山上耀一郎さん(学習院大学山岳部令和2年卒)が100年目の登頂を目指して挑みます。  このイベントについて、学習院桜友会(※)にて取り上げていただきました。 アルバータ峰初登頂100周年記念登山に山岳部OBの山上耀一郎氏が今夏挑戦(202

「アルバータ峰初登頂100周年」企画スタート

学習院山桜会 会長 加藤洋 学習院大学山岳部 昭和57年卒  関東大震災(1923(大正12)年)からの復興も途上の1925(大正14)年に6人の若者が日本初の海外登山隊として横浜港を出港、カナディアン・ロッキーで標高上位10の山の中で唯一の未踏峰のアルバータ峰(3619m)を目指し、スイス人たちと協力して初登頂を成し遂げた。  このアルバータ峰には、1925年の初登頂時の日本山岳会隊に、学習院中高等科山岳部OBの岡部長量・波多野正信が参加して初登頂。 そして学習院山桜会

#2 私の野球のこと

 こんにちは。自己紹介に続けて私が15年続けていた野球について語りたいなと思いました!長くなりますが見ていただけたら幸いです。  私は小学1年生から大学4年の春季リーグまで約15年野球をしてきました。何度もくじけそうになったり、辞めたくなったり... それでもたくさんの人の支えで立ち上がることができ大学では神宮大会出場、ベストナイン、リーグ選抜まで経験することができました。 私にとって野球は青春そのもので、私の人生にとって大きな財産です。  私の野球人生でもターニングポイント

厳しい指導の功罪:一人ひとりに合った成長のサポートとは

こんにちは、らるです。 今日は「厳しい指導」と 「成長」について話を していきたいと思います。 先日、私が昔所属していた 野球部のOB会に参加しました。 そこでは、十数年ぶりに会う 同期や先輩たちと、 懐かしい思い出話で盛り上がり、 当時の指導の話も出ました。 私が野球部だった頃は 指導の中で、 厳しい言葉が浴びせられることも多かったのですが OB会に集まっていた人たちは、 そうした厳しい環境を乗り越えた人たちです。 話を聞いていると、 「厳しい指導のおかげで、 自

1942年度:戦争で世の中が暗い中、夏は岩小屋で3週間活動

<創部から戦争までの各年度の活動記録> 1942年度 富士山(4月24日-26日) 4名参加 鹿沼岩登り練習(4月以降の週末に4回) 10名が毎回参加 古樫山(5月10日) 2名参加 奥武蔵人見谷(6月) 奥武蔵有馬谷(7月) 夏山合宿 涸沢生活 (7月12日-22日) 5名参加(他、案内人1名) 上高地キャンプ生活(7月23日-28日) 9名参加(他、案内人1名) 錫杖岳岩小屋(7月29日-8月3日) 4名参加(他、案内人1名) 穂高(9月20日-30日)