見出し画像

『学力』と『実践知』のトレードオフについて #2 崑

今回は台湾の教育(日本の問題にも通じる)について僕が感じる違和感について書きたいと思います。先に断っておきますがこれは個人的な感想であり、もちろん全ての生徒がこのようだとは言いません。

『高学歴』と『奇行』

僕がいる台湾大学は僕が現在在学中の台湾大学は世界ランキング68位に位置していてかなりの名門校だと言えると思います。僕は帰国子女枠で入学したので本当に大したこと無いのですが、確かに周りの学生では天才的な人たちが何人かいます。大してノートを取らないのに成績はほぼ全てA+、教科書を写真のように記憶出来る等々。勉強をすることに関しての能力は凄まじいものがありますし、スライドの作成などのタスク処理の能力も非常に高いと思います。

しかし肝心な所が抜けている気がするのです。それは『生活力』とでも言うべきものでしょう。僕は大学の寮に住んでいるのですが、洗濯する際に洗剤を入れないで洗う人がいたり、トイレで大きい方を流さない人がいたりと目を疑うことが幾つかありました。また交通マナーもあまり良くありません。僕の大学のキャンパスはかなり広く、大体の人は自転車で移動するのですが、急に曲がったり、割り込んできたりします。実際に僕のルームメイトも被害にあって手首を折っていました。

超学歴社会

台湾は、イメージ無いと思いますが超学歴社会です。小学生の時から多くの子供は学校終わりは塾に行かされて勉強をさせられます。それが中高まで続きます。小さい時から良い大学に入るように教育されるのです。また日本のように部活動を出来る生徒は多くはありません。台湾は土地が小さいため、学校に費やせる面積も限りがあります。その為校庭も小さく、選抜に受かった限られた人たちだけが部活を出来るという風潮があります。そこから漏れ出た子たちは勉強に打ち込むいう選択を取らざるを得ません。僕は中高時代にサッカー部に入っていましてが、そこで上下関係や礼儀作法について学ぶことが出来ました。部活動の意義はそのような部分にあるのだと思います。そのような文化の中で表出された『型』を学ぶことに意味があるのだと思います。

実践知について

それは実生活でも同様であり、家の中でお母さんがする家事を見て、どうすればよりうまく生活出来るか、お父さんの振る舞いを見て社会でどのように生きればいいのか、それを感覚的に学ぶことが重要なのだと思います。しかし超学歴社会+部活動に参加できない という縛りによって、彼らはそのような常識(コモンセンス)に触れる機会が少なかったのではないか、と僕は思います。その為に上記のような常識的に見ればおかしいことを平然と行うのだと思います。

もちろん過度な規範の押しつけは危険ですし、現在の多元主義的な考えの元では個人の自立性、自由が重視されるということはあります。しかしやはりある程度の『型』は必要であると僕は思います。私たちは他人と共同体を形成して生きています。もしこの協調相手と考えや習慣があまりにも異なったら、協力し合うのは不可能でしょう。だからこそ歴史的に同質性の高い人々同士で協力し合って生存してきたのです。

確かに彼らは勉強面において賢いでしょう。しかし、勉強が出来るかだけで賢さを測定するのはかなり問題だと思います。なぜなら彼らは生活することに関してまるで賢くないからです。日常的実践に基づく感覚が非常に乏しいように僕には思えます。もちろんすべての人がこうではありませんし、完全に否定するつもりもありません。僕が危惧しているのは、過度に勉強だけに捕らわれ、実践的な知性が失われることなのです。日常的実践を過不足無く出来て初めて専門的な学問を修めるべきなのだと僕は思います。『一人の人間として良く生きる』という本来あるべきことをないがしろにして専門的な勉学を修めるのは正に本末転倒であると言えると思います。それを促進してきた現在の教育制度は改善の余地が大きいと思います

今日はここまでにします。読んで下さりありがとうございました。良ければいいねとフォローの方お願い致します。


いいなと思ったら応援しよう!