ヘンリー・キッシンジャー逝去
1972年2月21日、リチャード・ニクソン大統領が中華人民共和国を訪問し、毛沢東中国共産党主席、周恩来国務院総理と会談したことによって、第二次大戦後20年以上対立していた米中が和解して2国の冷戦に終止符を打った。
その前年の1971年7月15日、ニクソンは、それまで秘密裏に米中交渉を進めていたことや彼が中華人民共和国を訪問するということを電撃的に発表して世界を驚かせて「ニクソン・ショック」 と呼ばれた。
それから1ヶ月後の8月15日、国際収支の赤字幅が拡大して1966年に外国のドル準備額がアメリカ財務省が保有する金保有額を上回り1971年4月に貿易収支も初赤字となり8月13日にイギリスがアメリカに対して30億ドルの金交換を要求するに至って、ニクソンは米ドルと金との兌換一時停止を事前予告なく宣言して「ドル・ショック」と呼ばれ、これによって1944年に締結されたブレトン・ウッズ協定による戦後の金融体制が終了した。
後に、ドル・ショックもニクソン・ショックと呼ぶようになり、前者を第1次ニクソン・ショック、後者を第2次ニクソン・ショックと呼び、ニクソンが行った2つの世界秩序の変革をニクソン・ショックと呼んでいる。
この、ニクソン大統領の新外交政策と新経済政策を実現するために、国務長官として暗躍したのがヘンリー・キッシンジャーだった。
写真は、ニクソン北京訪問の前年1971年に、北京で親しげに食事する周恩来とヘンリー・キッシンジャー。
ニクソン北京訪問によって、それまで「魚が多いだけの国」と揶揄されていた中国が現在の経済大国に変貌する道を歩み始めたのである。
20世紀一番の外交家ヘンリー・アルフレッド・キッシンジャー ( Henry Alfred Kissinger 1923/5/27)は100年の人生を終えた。
プーチンとキッシンジャー、対峙する2つの大国の2人の外交家は、10回以上会い続けて互いに相手の外交能力を認め合ったのだろうと思う。
西側のカオスな政治情況を背景にしていたにもかかわらずキッシンジャーがプーチンを独裁者扱いしたりロシアを非民主国家扱いしたことは一度もない。キッシンジャーはプーチンが大統領になる前から、その傑出した資質を大いに評価した。
互いに互いの国益を断固として主張し、他国に対して真っ向から自論を展開する二人の関係は、良くも悪くも、人類にとっての一つの道標でもあった。
MKC情報室 神代