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【コンサル物語】アクセンチュア誕生の歴史(後編)

1989年1月、アーサー・アンダーセン会計事務所は社内の組織を会計サービスのアーサー・アンダーセンと、コンサルティングサービスのアンダーセン・コンサルティングに分離しました。そしてその10年後両社は完全に別々の会社となりました。会計はアンダーセン社として、コンサルティングはアクセンチュア社としての道に進んでいきます。

元は一つの会計事務所が分離し、それぞれが新たなコンサルティング会社を発展させていきました。21世紀初頭には、アンダーセンの新しいコンサルティング部門(1990年代に誕生した別のコンサルティング部門)はBig4の中に生き続け、アクセンチュアは単独でコンサルティング業界で生き続けています。

アーサー・アンダーセン会計事務所でコンサルティング部門が発展し独立にいたった経緯について、今回は第二次世界大戦後の歴史について見ていきたいと思います。

1913年の事務所設立の時から、伝統的な会計士の枠を越えたアドバイザリー(コンサルティング)業務を積極的に進めていたアンダーセン社は、1920年代には財務調査や経営分析を高く評価されるようになりました。(当時は本社のあるシカゴを中心にコンサルティングサービスを提供しており、同時代同地域には、マッキンゼー社等の競合他社がありました)

1920年代のアメリカ経済の好調さもあり事務所を発展させたアンダーセン社でしたが、その後の世界恐慌とニューディール法の規制により、1930年代は一度コンサルティングサービスから撤退し本業の会計監査に集中するようになりました。

1940年代に入り、アーサー・アンダーセン会計事務所のパートナー(経営陣)は再びコンサルティングに注目しました。第二次世界大戦中に軍や政府においてデータ収集や会計の機械化が一気に進んだことから、戦後の民間企業でも同じ波が来るだろうと考え、コンサルティングを専門に行う管理会計部という組織を会計事務所内に設立しました。後のアクセンチュアに直接繋がる組織が生まれた瞬間と言えるかもしれません。1942年のことでした。

ニューヨークオフィスから有能な会計士が呼ばれ、シカゴ本部でコンサルティング部門責任者として着任しました。しばらくして、アンダーセン社のコンサルティング部門の礎を築くことになるグリッカウフ氏が採用され、アメリカで広がりつつあった企業向け電子コンピューターの調査のため大学や研究所を渡り歩いていました。

1946年、大きな転機が訪れました。ペンシルベニア大学で進められていた電子式コンピューターの開発プロジェクトは、同年2月にマシン名ENIAC(エニアック Electronic Numerical Integrator and Computer)と呼ばれる現在のコンピューターの原型モデルの一つを公開しました。ペンシルベニア大学でENIACを目の当たりにしたグリッカウフ氏は衝撃を受け、彼が目にしたものは必ずや大変革を起こすに違いないと大興奮しました。大学のあるフィラデルフィアの街からシカゴに戻ったグリッカウフ氏は、すぐにコンピューターの模型作りを始めたとのことです。

第二次世界大戦中のパートナー(経営陣)の先見性とコンピューターに衝撃を受けたコンサルタントの熱意でコンサルティング部門の拡大を図ったアンダーセン社でしたが、コンピューターをビジネスに適用するということはまだ市民権を得ておらず、様々な障壁が待ち換えていました。そのような状況でもアンダーセン社は途中で諦めることなく粘り強く進めていき、その行動は同業他社にも認められるようになりました。

プライス・ウォーターハウス社は社史『ACCOUNTING FOR SUCCESS』のなかでそれに触れています。

第二次世界大戦後、コンピューター・アプリケーションの需要が高まり、アンダーセン社は、極めて早い時期からコンピューターに取り組んでいた。メーカーからは、コンピューターを業務用に広く応用することは「時間の無駄」と警告されたが、アンダーセン社のこの分野での粘り強さは実を結んだ。

『ACCOUNTING FOR SUCCESS』

コンピューター黎明期からの取り組みは1950年代に入り実を結びました。1952年、アーサー・アンダーセン会計事務所のコンサルティング部門は、ゼネラル・エレクトリック(GE)社からケンタッキー州ルイビルの最新工場へ、データ処理や会計システムをコンピューターで構築するためのコンサルティングを受注しました。世界初の商用コンピューターの本格導入案件でした。このとき最新式コンピューターのUNIVACⅠ(ユニバック:Universal Automatic ComputerⅠ)を導入したことで、アンダーセン社のコンサルティングサービスは大きく成長しました。

ルイビル等での実績はアンダーセン社をシステムコンサルティングの分野でリーダーに押し上げ、同社の代名詞にもなっていきました。また、1950年代の終わりから1960年代の間、コンサルティングサービスはアンダーセン社全体の売上の約20%を占めるようにもなり、コンサルティング部門は事務所内での地位を向上させました。このような状況から、アーサー・アンダーセン会計事務所のパートナー(経営陣)はこのとき、後にコンサルティング部門の分離に影響を及ぼす大きな決断をしました。

それまでの社内ルールでは、アーサー・アンダーセン会計事務所に入社したものは、コンサルタントであろうと入社後2年間は会計監査部門での勤務を求められていました。アーサー・アンダーセンは会計事務所なのだという強い主張があったわけです。ところがこのルールが廃止されることが決まり、コンサルタントとして入社したものは監査勤務を経ず、すぐにコンサルティングの仕事をすることができるように変わりました。この決定は短期的には監査部門にとっても、コンサルティング部門にとってもメリットがありましたが、両部門がお互いを理解する機会がぐっと減り、同じ会社に全く別の2つの組織が存在するようになってしまいました。

1970年代、監査部門が伸び悩みを見せるのとは対照的に、コンサルティング部門は好調でした。そのような背景もあり、この頃からコンサルティング部門と監査部門の関係に軋みが生じ始めたと言われています。特に1980年に入ってからは、勢いのあるコンサルティング部門からの不満が噴出し、(引用元がジャーナリストによるため多少の誇張はあるものの)その内容は相手へのリスペクトを欠いた酷いものでした。問題はいつも権力と金をめぐるものでした。

  • コンサルティ ング部門が成長率と利益率で監査部門を凌駕し続けているのに、事務所を監査人が牛耳っていることにコンサルティング部門のパートナーたちは憤慨していた。

  • コンサルティング部門は事務所の利益に対する貢献度が監査よりはるかに高いの に、監査パートナーとコンサルティング・パートナーを同等に扱う古風な給与システムを押しつけられていた。

  • アンダーセンの経営陣の中でコンサルティングの地位が低かった。コンサルティング部門トップですら、監査人である北米地域担当マネジング・パートナーの下に付いていた。

  • 監査人だけがパートナーになることができた。コンサルタントも「パートナー」と呼ばれることがよくあるが、厳密には「プリンシパル」であった。(ブリンシパルは、「当事務所のパートナーに提示されたいかなる事項、あるいは当事務所のパートナーによる意思決定を要するいかなる事項についても投票する権利を有しない」となっている)

  • コンサルティング部門のトップは、監査スタッフ達の技術面での理解不足と自信のなさを非難
    『ビッグ・シックス』『名門アーサーアンダーセン消滅の軌跡』

『名門アーサーアンダーセン消滅の軌跡』から作成

1989年には収入比率がほぼ同じにも関わらず、監査部門等は3倍近いパートナーを抱えていました。また、アンダーセン社のコンサルティング事業は、監査あるいは会計事務所から自立することでマーケットの変化に対応でき、一層の事業発展に求められるものという特性を持っていました(システムコンサルティングは資本集約的なビジネスであるということ、監査と一体のコンサルティングは独立性の点でSEC(証券取引委員会)の制限を相当受けるということ)。そのため、多くのコンサルタントの間で監査部門とコンサルティング部門は分離すべきだという意見が強くなってきました。

そして、遂にアーサー・アンダーセン会計事務所のパートナーは、コンサルティング部門の分離を承認しました。1989年1月のことでした。社内の不和解消のためではなく、コンサルティング事業がマーケットの変化に対応するためという建付けでした。分離独立の内容は概ね次のようなものでした。

  • コンサルティングサービスは、アーサー・アンダーセンから独立したアンダーセン・コンサルティングとなった。

  • 会計、監査、税務の各部門は、アーサー・アンダーセ ン・アンド・カンパニーの名のもとに続けられた。

  • 帳簿は両者で分割し、会計とコンサルティングは別々に全収入、費用、利益の記録を行うことになった。

  • 両者のうち多い収入をあげた方が、その収入差異の15%を少ない方に支払う。

  • アーサー・アンダーセンは、大企業を相手とするコンサルティングマーケットへは参入しない。また、アンダーセン・コンサルティングは売上高1億7,500万ドル以下の中小企業向けのコンサルティングは扱わない。

  • コンサルタントは、各地事務所レベルからコンサルティング部門のマネジング・パートナー(部門トップ)に至るまで、全てコンサルタントに報告する(これまでは各地の事務所レベルでコンサルタントが監査人に報告するという命令系統だった)ただし、最終的な拒否権は監査人の手にある。組織図では、アンダーセン・コンサルティン グのマネジング・パートナーは、アーサー・アンダーセンのCEO(伝統的には監査人)に報告する

このような約束の下、コンサルティング部門は独立を手に入れました。しかし、これで問題が解決したわけではなかったことは、歴史が示す通りでした。

(参考資料)
『ビッグ・シックス』(マーク・スティーブンス著 明日山俊秀・長沢彰彦 訳)
『THE FIRST SIXTY YEARS』(ARTHUR ANDESEN & Co.)
『闘う公認会計士』(千代田邦夫)

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