0-3 聖書における「灰」とシンダーエラ(=灰かぶり姫)について
ツイートの中で適度に扱える情報はこんなものであろう。では何ゆえ「神に抗議する」ことになるのか、そもそも「神に抗議する」とは如何なる行為なのか。
そこには、なかなか一口に語り尽くせない意味合いが隠されているようである。
なお、筆者はキリスト教をまったく通っていない系の人類であるため、ざっくり調べた付け焼き刃の知識を拾っているものがほとんどであり、本来の目的は聖書の要素をモチーフにしていると思われるアイドルグループの楽曲世界への理解を深めるための資料の要約にすぎないものであるゆえ、意図せず本質とは異なる表現を使ってしまっている場合がある。布教を目的としたものではないため、その点はご容赦願いたい。
西方教会の典礼に「灰の水曜日」と呼ばれるものがある。
キリストが磔刑に処されてから蘇生した日を祝う「イースター(復活祭)」の、日曜日を除く40日前(つまり46日前)にあたる日のことをいう。この40日間を四旬節といい、キリストが荒野で40日間の断食をしサタンの誘惑に耐え忍んだエピソードにちなんだもの。
この「灰」は三つのものを表している。
一つは「悔い改め」。古代の人々は粗布をまとい、自らの罪を灰をかぶって悔い改めたという。
ではなぜ灰をかぶって悔い改めるのか。
「灰をかぶる」あるいは「灰の上に座る」といった行為は、既に起こってしまった悲劇に対して、あるいはこれから起こるであろう災難を前にして行われる。
人は死後、灰となり土に還るのだが、その灰をかぶったりその上に座るというのは、自らが死んだも同等であることを表現する行為だそうだ。
悲劇・災難は神の裁きによる自らへの罰と捉え、灰や塵をかぶったりその上に座り、ある意味では自らを貶めることで自分の罪を悔い「あなたの存在なくしては生きられない」と神へ憐れみを求めるのだという。
次に「へりくだり」。創世記において、神は土の塵で人を創り、命を吹き込むことで人は生きた者となったとされている。
つまり人間は元々ただの塵にすぎず、死して灰となればまた土に還る。命や心が尊いものとされるのも、あるいは人生の意義というものすらも、神によって生かされているからこそ在るもので、つまるところそれを自覚し謙虚にすべし、といったような意味合いと思われる。
「悔い改め」に込められた意味合いとは似て非なるが共存しうるものであろう。
そして最後に、「清めのしるし」。
かつて灰は、身体や衣服、調理器具や家具などを綺麗にするために使われたといわれる。灰は目に見えるものこそ綺麗にするが、内なる心までは実際に清められないため、悔い改める者に対し、罪の赦し、また罪からの清めのしるしとして与えられるものであるそうだ。
実際、灰の水曜日に行われるミサでは信者の額に灰を塗りつける儀式がおこなわれるという。
かいつまんで言えば、災難に際して灰をかぶるという行為は、その災難が因果応報であること、そして自分が神に生かされているにすぎないことを自覚し、傲慢さを捨て自らの弱さや惨めさを晒すことで神に赦しを求め、心身を清めようとするものなのではないか。
心の虚飾を削ぎ落とし清廉にならんとする、このテーマは最新曲「Pride」に描かれていることに通じていると言えるだろう。
また、聖書における「灰」という存在を強く意識するのであれば、「君のいない世界」における「君」とは、主人公にとって「神」とも言える存在だと解釈できる。「君」のいない世界はめちゃくちゃなのだ。それが欲望に転じた姿として「GREED」があるとも言えよう。
これらの要素を鑑みれば、シンダーエラの楽曲の世界観というのは、「自らの罪を悔い改めるべく灰をかぶった少女の姿をシンダーエラ(=灰かぶり姫)に見立てたもの」だという仮説ができあがる。
以上を踏まえ、またおいおい他の曲についても詳しく考察していきたいと思う。
また、聖書に関して調べる中で興味深い話を見つけた。
聖書が教える「罪」とは、法律を犯したり、社会通念から外れたり非道徳的ことをする、ということだけではなく、本来しなければならないことをしなかったことも「罪」に該当するそうだ。
これもまた楽曲に描かれるストーリーを紐解く大きなヒントになると考えている。