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ゲイ男性の描かれ方  ~落合恵子『偶然の家族』(中公文庫)の場合~

 最近、20年ぶりくらいに上記の小説を再読した。初めて読んだときは、都内のアパートで暮らしている、近代家族の枠に収まらない人々(ゲイカップル、シングルマザー、離婚歴のある男性など)のゆるやかなつながりを描いた作品だと思った1)。その印象は今も変わらないが、読み直して気付いたこともある。その1つが、このアパートの大家である男性とそのパートナーの描き方である。

 このアパートの大家である城田夏彦は、同じアパートに住む山下平祐とカップルである。彼らがカップルであることを示す描写は簡潔で、むしろ素っ気ないくらいである。

 ・もっとも夏彦の恋人の山下平祐によれば、
 「誰も草花のことなんか、わかっちゃいないんだから」
 ということになる。[p.7]

 ・夏彦が男の平祐と暮らしだしたことを、多香子は自然に受け止めてくれた。[p.50]

 ・ともかくいろいろあった。いろいろあってふたりで暮らした人生は、三十年以上になっている。
  夏彦は人生の伴侶として平祐を選んだことを、自分にはできすぎたことだと思っていた。[p.55]

 ゲイカップルだけが主役ではないから当然と言えば当然かもしれないが、「ゲイ」「ホモセクシュアル」「同性愛」という言葉は使われていない。淡々と描くことで、男性同士のカップルも世の中にはごく当たり前に存在していることを示しているように思える。

 ただ、気になった描写も1つあった。夏彦の姉である多香子が、夏彦の幼年時代を回想する箇所である。

  子ども時代、ふたつ違いの多香子と夏彦はいつも一緒だった。それは夏彦がかなり大きくなるまで続いたように思う。
  幼いころから夏彦は、およそ男の子らしい遊びを嫌って、多香子のあとばかりついて回った。
  多香子の女友だちも、夏彦を異性とは見なかった。ほかの男の子たちが多香子と遊びたがっても、多香子も多香子の女友だちも拒むことが多かった。けれど、夏彦だけは別だった。[p.131]

 男女別学文化の日本において、男の子の文化でなければ女の子の文化、女の子の文化でなければ男の子の文化となってしまうのは(戦後世代としては)仕方ないのかもしれないが、読み手によっては「ゲイってやっぱりそうなんだ」と誤解されかねない描写ではある2)。

 とは言え、水商売以外の職業に就いているゲイ(夏彦は詩人で、平祐は家具職人である)が、1990年3)の時点でシスヘテロの作家の作品に登場していたことは、記憶されてよいと思う4)。

 後日、『自分らしく生きる 同性愛とフェミニズム』(落合恵子・伊藤悟 かもがわブックレット)を読んだとき、あとがきで落合さんが次のように書いていたのを見つけた。

『自分らしく生きる』

  ゲイの恋人同士が主役である、わたしの小説に『偶然の家族』があります。人権について、比較的理解しあってきたはずだと思っていた男性の編集担当者から、「気持ちが悪い」とひとことのもとに切り捨てられた作品であり、けれど、わたし自身は悪くないな、と思っている作品です。[p.56]

 件の編集担当者が何をもって「気持ちが悪い」と切り捨てたのか、気になるところである。若くはないゲイカップル(夏彦は58歳で、平祐は66歳)のことなのか、平祐の言葉遣い(オネエ言葉)のことなのか、それとも小説にゲイが出てきたこと自体なのだろうか。
 ゲイの恋人同士は主役ではあるが、アパートの他の住人も主役であり、ゲイの恋人同士の描写が特別に多いわけでもない5)。それにもかかわらず、このような切り捨てる言いぐさには、編集者というよりただのシスヘテロおっさんの素が出ているかのようである。このシスへおっさん編集担当者の発言は、一体いつ頃のものだろうか。


(補)
1) 今読むと、アパートというよりシェアハウスに近い印象を持つ人もいるだろう。住人同士が時に料理や食事を共にする点など、まさにシェアハウス感が出ている。
2)今読むと、このあたりが当時の限界を感じさせるところである。今ならば、「幼いころから夏彦は、男の子の集団遊びを嫌い、一人で虫取りをしたり、本を読んだりするのを好んだ。そんな夏彦を、多香子や多香子の友人も変わっているなとは思っていたものの、日常風景の一部として何となく見ていた」という描写も可能であろう。
3) 『偶然の家族』の単行本は1990年に出版され、1994年に文庫化されている。
4) 女装もしない、オネエ言葉も使わないゲイが多くの人の目に触れるケースは、ありそうでいてなかなかない。
 たとえば、歌人の鈴掛真さんの著書『ゲイだけど質問ある?』(2018年 講談社)には、鈴掛さんがテレビ番組に出演したことで「オネエじゃないゲイもいることをテレビでアピールしてくれたことに感動しました」というメッセージをSNSで同性愛者たちからもらったエピソードが紹介されている。このテレビ出演は2013年のことだが、2013年の時点でも「オネエじゃないゲイ」がメディアに出ることは、かようにレアケースだったのだ。
 ゲイだけの問題ではないが、テレビにせよ、フィクションにせよ、セクシュアル・マイノリティがどのように扱われるかという問題は常に注視する必要がある。
5)『偶然の家族』は三人称で描かれており、メインキャストの描写についても、誰かの描写が極端に多かったり少なかったりということはない。


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