絶望の中の色は。死にたいと思い続けた私が死ななかった理由
以前少し書いた、死を考えていた頃の話。
実は結構前にこの記事も書いていてずっと下書きに入れていました。
あまり思い出したい話ではありませんが、木村花さんの死により、無視できるような問題ではなくなってきました。
もちろんどんな人の自殺も痛ましく悲しいことには変わりませんが、やはり有名な人となると多くの人が色々なことを思うものです。
花さんの出来事により、ネットの誹謗中傷が大きく見直されようとしています。
人が死んでからやっとわかるなんて本当に皮肉な話ですが、多くのインフルエンサーから「誹謗中傷が明らかに減った」という報告をSNSで多く見ます。
なんだか悪しき習慣が見直される殉職のようにも感じてしまいますが、私は自殺を肯定するわけではありません。
最初に言ってしまうと、自殺という行為は、自分の未来の可能性を全て消してしまうことです。
でも、死にたいと思っているうちはそんないつ来るかわからない未来のことなど、すごくどうでもいいことに感じる気持ちはわかります。
少しヘビーな話題になるので、
途中で読むのが辛くなったりしたら離脱してくださいね。
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以前、不登校になったから死なずに済んだと書いたけど、不登校の日々が穏やかだったわけでは決してなかった。
むしろ自分の中は常に、絶望的で虚ろ、時に激しかった。
今まで抑圧していた感情の、反動だったのかもしれない。
あの頃を色に例えるなら、
黒、灰色がかった水色、群青色。
黒は、毎日希望がなくて、苦しくて、絶望の中にいる色。出口も見える気配もない。
灰色がかった水色は、外に出ず引きこもっていて世間と遮断されていたから、浮世離れしたような色。
そして、毎日死にたいと思っていたから、意識があの世に近いような、死の世界のような色。
群青色はこの世と死を結ぶ中間。
ほとんどが黒だった。それも真っ暗な黒。
晴れの日は私の絶望には不釣り合いで、家の中から陽の光を見てた。
遮光カーテンを締め切って、部屋の電気を消して、昼間でも夜みたいな部屋にして閉じこもっていたこともある。
大雨や嵐の方がずっと気が落ち着いた。
絶望し続けて、母と学校のことを話した時は泣き続けて、泣きすぎて過呼吸になったり。
生きていることが嫌で、寝ている時は全てから逃れられるから一番楽だと思ってた。
ずっと無気力で、昼も夜もわからず20時間以上、死んだように寝てることもあった。
その方が現実から逃れられて、楽だった。
「将来は絶対に幸せになれるよ」とか
「これを乗り越えれば強くなるよ」とか、
そんな言葉は邪魔で仕方がなかった。
将来とかじゃなくて、私は今、辛い!生きているだけで苦しい。
今すぐ現実から逃れたい。全てを終わらせてしまいたい。
そんな感じだった。
「生きたくても生きれない人も沢山いるのに、命を粗末にするもんじゃない」
そんな人たちはたしかに気の毒だけど、まったく響かなかった。
だってその人達は、「生きたい」って思っているだけ幸せじゃないか。
死にたくても死ねない人だって、いるんだ。
実際、自分の命なんてどうでもよかった。
負けた自分、どうしようもなくみっともない自分、とにかく自分の全てが無価値に感じて、消してしまいたくて仕方なかった。
こんなやつ早く死んでしまえばいいと思ってた。
思えば、「死にたい」は
「自分が嫌いで仕方ない」だったのかもしれない。
現実問題、どうやって死ぬのかは難題だった。
私は、グロいものは昔から苦手で、映像で血を見るのも直視できない。
どんなに死にたいと思ってもそれは変わらず、リストカットなんかもしたいと思わなかったし、飛び降り自殺なんかも、絶対に無理だ。
「飛び降り」っていう綺麗なイメージだけが響くけど、落ちた時はそれはもう見てられないことになるのだから。
首吊りなんかも、同様だった。死ぬ間際、絶対に苦しい。
睡眠薬も、結局重体になるだけで死ねるわけじゃない。
ビニールテントに(たしか)スズランを敷き詰めて寝ると死ぬっていう、「1番綺麗な死に方」がTwitterで出回った時もあった。どれだけの予算と手間がかかることか。現実的なものではなく都市伝説のようなものだった。
1番いいと思ったのは、凍死だった。真冬なら、そのへんに一晩中寝転んでいれば死ねるんだろうかと考えたりしていた。
でも結局どれも現実的じゃなかった。
結局は、楽して死にたくて、痛いのも苦しいのも嫌。そんなのはこの世に安楽死しかない。その時の私が思いつく範囲ではそうだった。
そんなお金はとても用意出来ない。
何より、自分の死体があとに残るのが嫌だった。結局は「消えて無くなること」が理想だったのだ。
私が死ぬことに諦めがついたのは、
「自殺した人は、
楽になんてならないんだよ
暗闇にずっと閉じ込められてさまよってなきゃいけないんだよ...」
という言葉を聞いた時。
そして生きていれば、こんな良いことが将来あったのにっていう映像を見せられるだとか、自分の死を悲しむ身内の姿を見せられるとか。
本当かはまあさておき、いかにも本当っぽい気がした。
何より急に怖くなった。
自殺すれば楽になるなんて、話が簡単すぎるから。都合が良すぎる気がしてくる。
だったら、生きていた方がマシじゃないか...という結果。
あとは親が悲しむことを想像すると、さすがにやるせないのもあった。
その後も死にたいとは思っていたけど、具体的な方法について考えることは減った。
実際に死ねなくても、自分のことを刺してしまいたい、という衝動や首を絞めてしまいたい、と思う衝動は何年か続いた。
きっと自分が嫌で仕方なかったから。
いじめや虐待とか、暴力(心体問わず)を受けて傷付けられるってこういうことなのかなと思う。
私はそれに値すると、傷付けられるだけの理由がある人間なんだと、刷り込まれて、信じ込んでいる。
自分なんて無価値で存在しなくていい人間だ、と思わなくなったのは一体いつからなんだろう。
それでも、そう思わなくなる日は必ず来る。
乗り越えろなんて言わない。
ただ辛い場所からできる限り逃げて、息をして日々をやり過ごす、それだけでいいから。好きなだけ休んでいいから。
逃げたらいけない場所なんて、本当は無い。
義務教育の学校や、責任のある職場。それが自分の命を守ることになるなら、それは犯罪でも何でも無いんだから。
遠くない日に、自分なんて無価値だという呪縛も気付けば無くなっている。
自殺は、自分の将来の可能性を全て潰してしまうこと。
夜が明ける気配は無いし、一体この暗闇はいつまで続くんだろうと思う気持ち、将来なんてどうでもいい、と思う気持ちはすごくわかる。
それでも、あの時生きていてよかったと思う日は必ず来る。
死にたいと、自分の人生は無価値だとずっと思っていた私は今、
「生きていてよかった」「生きていたい」と思っているから。
今回の記事の写真2枚は岩倉しおりさんのものを使わせて頂きました。
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