心配する気持ちされる気持ち
心配がなくなることが必ずしもいいのか?
うちの子らが通っていた幼稚園は、バスの運行状況をリアルタイムにお知らせするサービスなどはしません。
と言われてました。
その理由はこうでした。
子どもがいつも通り帰ってくることは、あたりまえでないということ。
例えば、何かの加減でバス遅れたりすることがある。
いつもならもう着くのにな、おかしいな。
と子どもは、どうしたのかな?とソワソワする。
バスから降りてお母さんの顔をみるとソワソワした分安心する。
それまでの時間、お母さんにも同じように子どもの帰りを今日はどうしたかな?と心配して待っていて欲しい。
同じように、お母さんもソワソワ心配してくれてるのと、便利な機能で、子どもが味わっているソワソワをかたやお母さんは感じることがないのとでは、違いませんか?
どうでしょう?
子どもはお母さんをみています。と。
安心安全、母を楽にしてあげるサービスはどんどんすべき!便利はいいこと!
保育現場ではそれらを重要視するのは当たり前のような世の中ですが…
子どもにとってどうなのか?が一番だった幼稚園の考えを聞いて私は、なるほどなぁと思ったのを思い出します。
そのことを、再確認すること出来事が最近ありました。
先日、習い事から予定の時刻に帰ってこない娘。
家が近い友達と帰ってくるから時間だけ気にしてるのですが、予定の時刻を5分過ぎても帰ってこず、喋っていたりするのかな?と帰路を逆走で迎えにいってみました。
しかし、行けど、会えません。
習い事の場所まできても消灯されていて誰もいません。
スマホも何も持たず軽い気持ちで迎えにきた私は、不安と心配で全速力で自転車を漕いできた道をもどり、家につきました。
でも、家に帰ってみても娘は帰って来てなくてプチパニック!
旦那と二手に別れて探しにいきました。
すると、友達と話ながら全然逆方向から笑いながら帰ってきた娘。
娘見てホッとしたのと同時に、
「何してたん?何故寄り道して帰ってくるのよ!😤心配するやん」
と、一喝!
が、聞くと、どうやら逆方向に帰る子が1人だったから、明るい人通り多いところまで一緒に帰ってあげてたから遅くなってしまったとのことでした。
彼女達なりの危機回避で起こったイレギュラー。
そうだったのか…と、納得。
心配から解放されたけれど、心配しすぎて帰ってどっと疲れた私。
そんな私をみて、真ん中娘は、
「ママそんな心配してくれたん?ごめん。でも連絡しようがなかったし。ごめん。心配してくれてありがとう。」
と言いました。
心配するんは当たり前と思っている私に、真ん中娘がとても嬉しそうだった顔に、心臓には悪かったけど、これも経験かとおもったのでした。
彼女には、今の私の心配する顔が焼き付いたはずだから。
その時ふと、スマホを持たせていたら、確かに安全確認はすぐできただろうけど、自分もここまで心配したかな?と思うし、こんなにも心配することが、娘に伝わっただろうかと。
子どもの安全は、常に守りたいけれど、安心を与える便利がゆえ薄れる心配もあるな、なんて思った出来事でした。
(池永)