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明けの明星を見ながら

真の男女平等を実現するため、女は、男女別に、年ごとの出生数と成人までの生存率を調べて、男女比を割り出す必要があると考えた。
女は、エスタブリッシュメントでも、進歩的な考えを持ち、子どもの教育には金と熱意を惜しまない家庭に育ったわけではない。
その日食べるものにさえ困って育った父親に、「身の程を知れ」と言われて育った。
女の母親の時代には珍しいことではなかったけれど、母親には、「高校を出て、専門学校に行くか、働いてくれたらいい」と思われていた。
女が、ランドセルを背負って、ドナドナをBGMに流しながら、小学校に通っていた十歳くらいの頃、
「このままだと、私の人生、大変なことになるから、何とかして!」
と訴えても、両親は耳をかさなかった。
まるで、子どもなんて、自分たちより下であればいいとでも思っていたように。
誰も、学校の先生達や、周りの大人達も、女の言葉に耳を傾けようとはしなかった。
女は、学校で孤立していた。
大量生産されていくヒヨコ達にもなれず、
醜いアヒルの子にもなれず、
毎日もがき苦しんでいた。
周囲からは、絵や文章を書く事と、読書が好きだと思われていたが、女を救ってくれるものは何もなかった。
だから、女は、
社会的男女比率の平等?何それ?食べれるの?エスタブリッシュメントでもあるまいし、私に何か関係があるの?
と思っていた。
ビリギャルじゃあるまいし、底辺からのし上がれる人間がどれくらいいるの?
乙武洋匡さんや、辻井伸行さんの存在を初めて知ったとき、女は思った。
人生は、障がいのあるなしで決まるのではない。
全て、環境と出会いで決まるのだ、と。

明けの明星を見ながら、女は涙をこらえていた。

星の名前も知らない少女だった頃も、私はこうやって、夜空を見上げていたな。心配した母が、散歩について来て、鬱陶しかったけど。
しょせん、私には何もなかったということ。
私は、才能と幸運を持って生まれたかっただけだということ。
人生を諦めることが出来ず、女はずっと見てきた。
自分ではない誰かに、栄冠が輝くのを。
難解と言われる現代詩も、現代短歌より保守的だと思う俳句も、女を傷つけることはあっても、女の人生を代弁することはなかった。
来ると去るでは、全く違うのに、兼題と又三郎が同じだっただけで、「今週のそっくり君」に選ばれる。そんな不名誉なら、女は幾らでも味わってきた。
俳句は、採点競技ですから。
という人もいるけど、そうなのだろうか?
季語を知らなければ読み解けないミステリーのようだとは思うけど。
女は、もう、何かに自分の人生を否定されるのはウンザリだった。
呪われた人生を歩む者にとって、夜明けは呪いでしかなく、人生は受難でしかない。
全てのものが出尽くした今では、自分の窮状を訴える言葉でさえ、ありふれたものとしか受け取られない。
そんな想像力のない時代を女は生きている。否、いつまで生きることになるのだろう?
神という言葉が、紙よりも薄い今、全てのものが数値化され、序列化されていく。
AIにではなく、人間によって。
他者は消費され、差別は作られて行く。
そんな哲学的なこと言ったって、笑われるだけだろうけど。


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Ko Enomoto
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