「性差」はあたりまえのもの?
先日、国立歴史民俗博物館で行われていた「性差の日本史」という展示を見に行きました。
卑弥呼の時代から現在に至るまで、日本社会の中で男女がどのように分断されてきたのか?その変遷をたどる、非常に興味深い展示です。
現在の日本社会では「男性が仕事をしてお金を稼ぎ、女性が家のことに従事する」という形がモデルケースである、というなんとなくのイメージがありますが(とは言え、そんな家庭も今では少数派なのですが…)、昔は男女の区別なく農作業に従事し、町全体で子育てをしていたそうです。
しかし、時代が進むにつれて女性は少しずつ社会から排除されていきます。
「月経は不浄であり、女性は穢れている」とされたこと、
生活費を稼ぐ手段として遊女になった女性たちが、次第に「自分から進んで身体を売る女」として蔑まれるようになったこと…
理不尽な女性に対する“決まりごと”のひとつひとつは、現代まで脈々と受け継がれているように思います。
昨日今日で形作られたわけではないジェンダー意識の根深さに暗澹たる気持ちになりながらも、展示の最後に放映されていた村木厚子さんからの希望の込められたメッセージに、少し前を向くことができた気がします。
「制度によって排除されてきたのだから、制度によってまた取り戻すこともできる」
なぜなら、制度が確立される以前には男女の区別はなく、つまり能力的には何の差も無いことが実績としてわかっているからです。
女性活躍が謡われながらもなかなか進展がない現在、女性の割合をあらかじめ一定数定めてしまおう、というクオータ制度が議論されたりもしています。
クオータ制度に対する反対意見としてまず出てくるのは「女性だからという理由で起用したとしても、能力が追い付いていない可能性がある」というも。しかし、もしかするとそこには無意識に女性社員を低く見積るバイアスが働いているかもしれません。
実際に、「まずはやってみる」という精神で積極的に女性管理職を登用してきたポーラは、女性活躍推進法が施行される前に、すでに女性管理職比率約30%という数値を達成しています(ポーラ初の女性社長が語る、女性が自然に昇進していける分岐点はどこにあるか)。
2021年には、女性が少しでも活躍の幅を広げられる新しい(ただし、歴史を広い目で見ると“古い”)景色が少しでも見られることを願っています。
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