![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/166076534/rectangle_large_type_2_c2e4b5a3295ebb285802a4c84ffe1759.jpeg?width=1200)
映画「ノルマル17歳〜わたしたちはADHD〜」感想
発達障害をテーマにした映画「ノルマル17歳」を元町で見てきました
![](https://assets.st-note.com/img/1734406397-d8BhzQmWylSG21D7VrJ5eHjM.jpg?width=1200)
とってもいい映画でした。発達障害の苦悩と希望がよく描かれています
以下、箇条書きですが感想です
普通になりたい、普通になれない、普通って何、その苦悩の叫びがこの映画から受け取ったメッセージだ
家庭、学校、どこにも居場所がない。普通になれない。そんな女子高生二人を支えたのは互いの友情だった。
そして二人は最終的に「普通の世界」に帰っていく。特別な才能がない限りそこしか「居る」ことのできる場所はないからだ。
しかし普通の世界に耐える力が映画の終わりには二人にはある。それが同じ発達障害に苦しむ同世代の友人だ。
まだ世界には発達障害者がそのままでいられる場所はない。普通の世界で騙し騙しやっていく。その耐える力を得るまでの物語だった。
冒頭から
オタクに優しい非自在系ギャルだ……
※絃はオタクではない
フィクションとして知らない発達障害同士をカミングアウトさせるシチュエーションを考えるのはなかなか難しいのだがギャルがいきなりカミングアウトすると言うのは面白いと思う
ギャルだから、で通じるものがある
壊れた自転車の例えは当事者としては割と響く
絃、朱里、それぞれ家庭にも学校にも居場所がない存在として描かれる
それなら商店街という居場所を見つける朱里
どこにも行けないと諦め気味の絃
ただ、これは絃はなんとか学校に行けているというのが大きいと思う
そこまでして居場所を見つける必要がないギリギリで耐えているというか
絃の両親。優しさを装った無関心の父、優しさを装った過干渉の母。日本の家庭の縮図みたいだ。
「あなたは頑張ったらできるんだから」「発達障害なんてレッテル」絃の母は特に障害需要ができていない存在として描かれる。
朱里の両親。こちらも子供の障害需要ができない親として描かれる。朱里の場合は特に父親が立ち塞がる形となる。
朱里の場合、絃と大きく違う家庭の要素がある。健常者の姉だ。両親は共に姉と朱里を比較して、どうして普通にできないのだと責める要因になっている
姉自身、朱里を嫌っている
だから余計に朱里は家庭に居場所がない。しかし学校にいくこともできず、居場所のない家庭に居ざるを得ない。
絃は一人っ子だから味合わずに済んだ地獄とも言える。
二人は同世代の発達障害として初めて出会い、交流しようとするが絃の母親に阻まれてしまう
結局、子供だなと思うのは二人とも親の言葉を間に受け、過剰に反発するか、過剰に受け入れてしまうところだ
時計の針が進む。不登校気味の朱里のところに友人から進路の知らせの電話がかかってきて余計に追い詰められてしまう
追い詰められ連絡がつかなくなる朱里
絃は諦められず商店街を探し、見つからなくても書店を巡る
これは優等生の強さ
やっと連絡がついた朱里、公園に向かう絃を母が阻む
ここから成長のシーン
母の「あなたのために言ってるのよ」という言葉に映画の中で絃は基本的に従順に従ってきた
けれど、ここからは逆らう、母に自分は発達障害であり、できないものはできないと告げる
そして朱里は友達だ、自分に干渉するな、そう言って朱里を探しにいく
お母さん、あなたは今ショックかもしれないけど、きっと今娘さんは本当の大人のステップをあがったんやで
絃に再会する朱里はなく「普通になりたい、でもなれない」と
一緒にいく旅行の約束が二人を支える
二人には理解のある両親も、先進的な療育もないが、それでも「普通の世界で生きることに耐える力」をここで得たのだと思う