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遊牧牛➁
小春が寮に来てから1ヵ月が経つ頃、僕の生活にいくつかの変化が見られるようになっていた。
一番の大きな変化は、早朝のライリーの散歩が日課となったことだ。
小春の入寮日初日の夜、引っ越し作業がひと段落した頃に教授は再び寮生全員を共用スペースに集めた。
そこで、新たな居住要件として小春当番なるものが定められることとなった。
「小春当番には大きく二つの仕事がある。一つは、小春とともにライリーの散歩について行くこと。もう一つは小春に勉強を教えることだ。」
教授の説明が終わると同時に、小春以外の皆の視線が僕に集まった。
「とりあえずライリーの散歩はハルの役目だな」
成宮が言った。
「ちょっと待てよ、こういうのは当番制じゃないのか?」
助けを求めようとして桃原さんと天野川さんの方を確認すると、二人とも気まずそうに僕から目をそらした。
「俺は今学期一限の授業とっているし、桃原さんは徹夜で実験がある日が多い。それに天野川さんは毎朝サークルの早朝練習がある。必然的にこれは休学中のお前の役目だよ」
「ごめんね、ハル君」
「小春ちゃんはハルがついていくので問題ない?」
桃原さんが尋ねると小春はこくりと頷いた。
満場一致で散歩当番は僕になり、次の日の早朝から僕は小春とともにライリーの散歩に付き合うこととなった。
初めの頃は辛かった早朝散歩も、一ヶ月も経つと少しずつ体が慣れてきた。
いつも通り軽く顔を洗って髪をとかし、歯を磨いてから階段を下りると既にムクが待ち構えていた。
元からムクの散歩当番は僕だったから、ここのところライリーの散歩のついでにムクの散歩もすますようにしている。
ムクにハーネスとリードを着けて外へ出ると、小春も丁度ライリーにリードを着け終えたところだった。
「行こうか」
僕が声をかけるとムク、ライリー、小春は歩き始めた。
明け方の澄んだ空気の中、男一人と中型犬、そしてセーラー服を着た少女とリードにつながれた牛がゆっくりと散歩している。
僕的には異様な光景だと思うのだが、今のところ誰からも怪しい目を向けられたことはなかった。
それどころか、同じように早朝散歩しているカップルや犬の散歩をしている老夫婦からにこやかに「おはようございます」と声をかけられることさえある。
意外と皆涵養なのだろうか、それともただの無関心なのだろうか。
誰からも奇異な目で見られたり咎められたりしないことに対して、僕はいつも不思議な気持ちになった。
他の寮生が小春と仲良くなっていく一方で、毎朝散歩で顔を合わせるにもかかわらず、小春と僕はまともな会話すら交わすことができずにいた。
そして、僕はその原因を何となく自覚していた。
「ハルさんはどうして大学に行かないんですか。」
ある日の散歩帰り、寮の玄関でムクの足をタオルで拭いているときにそう尋ねられた。
突然の思いがけない質問に僕は頭が真っ白になり、何も答えることができなかった。
小春の大きな瞳に貫かれていたたまれなくなった僕は、一言「ごめん」と言ってタオルとムクを投げ出し、逃げるように階段を駆け上がって部屋へと戻った。
あの日以来小春は僕を拒絶しているように見える。
僕が何度かあの日のことを謝ろうとする度に不自然に目をそらされ、最近は僕が視界に入らない位置を歩くことで話しかけられるのを防いでいるようだ。
それに、僕は未だに小春の質問に対する明確な答えが見つかっていなかった。