「広長舌相」とヨーガ:元祖ヨーギンとしてのブッダ
前回投稿 では、スッタニパータにおける謎の『広長舌相』について考察した。
私がこの、一見突飛な、荒唐無稽にも思えるエピソードにこだわるには、もうひとつ理由がある。
それは、前回の読み筋とほぼ並行して始まったもので、ヨーガの行法とも深く関連する視点だった。
広長舌相についてとやかく言う前に、そもそも広長舌相をそのひとつとして含んでいる仏の32相について、おさらいしておくべきではないか。
そう考えた私は、まず仏の32相について1から32まで、読み上げていった。これは検索すればネット上で見る事ができるし、ちょうどその頃読み始めていたパーリ経典の中にも、32相に特化した経典などがあって知る事ができた。
これらも読んでみるとかなり荒唐無稽な内容が多く、このようなイメージによって古代仏教徒たちが一体どんな心象を形作っていたのか、容易にはうかがい知れない。
ここで32相の全てを羅列する事はしないので、興味のある方は調べてみて欲しいと思うが、私が一見して興味を引かれたのは、動物に関する譬えが多い、という点だった。
すでに私が慣れ親しんでいたスッタニパータなどでも、その巻頭を飾る『蛇の章』は、文字通り蛇が脱皮する事に喩えた定型句で締めくくられるものだし、「サイの角のようにただ独り歩め」というこれもまた有名な句も存在する。
総じて原始仏教の世界では、修行僧や、その先達であるブッダを、動物の姿・形・生態に重ねて語る事が多いのだが、それが、この仏の32相においても踏襲されていた。
こうやって箇条書きに出してみると、32相の内の7相が動物の喩えを明言しているので、その割合は決して少なくはないだろう。
中でもライオンは、唯一2つの項目で『獅子王』が明言されているので注目した。
さらに、
「24. 牙白相(げびゃくそう) : 40歯以外に四牙あり、とくに白く大きく鋭利堅固である」という項目は、おそらく動物、特にライオンなどの雄大な牙を連想していると考えられるので、だとすると獅子のイメージは三つになる。
ひょっとすると、「14. 金色相(こんじきそう):身体手足全て黄金色に輝いている。」と「15. 丈光相(じょうこうそう):身体から四方各一丈の光明を放っている(いわゆる後光(ごこう))。光背はこれを表す」もライオンの体色と鬣:たてがみ、からの連想かも知れない。
しかし、残念ながら、広長舌相(27. 大舌相)はどのような動物にも明示的には喩えられていなかった。
ただ、舌をもって顔のあちこちを舐めると言う動作・生態は、人間だとすると荒唐無稽な光景だが、動物ならさほど不自然ではない。
そこで、いろいろな動物のしぐさを考えてみた。
カメレオンなどは長い舌をもって、眼までも舐め上げるし、アリクイなども長い舌を持っている。
そこでふと閃いた事があった。
私はインド滞在歴のべ51カ月になるほどの超インド・フリークだ。なのでインドと言えば野良牛というように、インドの街路を徘徊する牛たちの姿は、これまで常に眼にしてきた。
加えて、学生時代に野辺山で高原野菜のアルバイトをした時に牧場が併設されていて、そこで牛の生態をまざまざと身近に見聞した経験もある。
それらの記憶が、この時鮮やかに蘇っていた。
「そう言えば、牛っていう生き物は、長い舌でもってしょっちゅう鼻の穴を舐め上げていたな」と。
牛タンを料理した事のある方なら分かると思うが、牛の舌というものは異常なまでに大きく長い。その長い舌をもって、彼らは暇さえあればその舌先を鼻の穴の奥にまでも突っ込んで舐め上げている。
それは初めて近くで目撃すると、一種異様な衝撃をもって強く印象付けられる姿だった。
動物の生態としてなら、ブッダが舌で耳と鼻と額を舐め上げた、という営為は、決して異常ではない。実際に牛は、長い舌をもって鼻の穴を舐め上げている。
さらに、パーリ経典ではブッダは最上の牛、ナーガ(象)の王、獅子王などに頻繁に喩えられている。
ライオンだって鼻面を獲物の腹腔に突っ込んで血まみれた内臓を食べたりするのだから、舌でもって鼻や顔面を舐めることぐらいできるのではないか。
動物との重ね合わせがひとつの鍵かも知れない、という発想から、次に私は、インド武術において、その体錬の基礎動作の中で、動物のポーズというものが重要視されている、という事実を思い出していた。
南インドのケララ州において継承されている伝統武術カラリパヤットの、基礎体錬であるメイパヤットというシステムの中には、ライオンのポーズをはじめ馬・象・孔雀など仏典でもおなじみの動物のポーズが多く取り入れられているのだ。
それらは、人間技を超えた野生動物の強大な力や柔軟性、跳躍やスピードなどを、戦士の能力として取り込む為に考案された、と言われている。
考えてみると、カラリパヤットなどインド武術の身体観は、ヒンドゥ・ヨーガの思想を下敷きにしていた。これは実は、インドにおけるあらゆる身体文化に、多かれ少なかれ共通している事だ。
その証拠に、カラリの基本ポーズやマラカンブの技などは、ヨーガ・アーサナと多く重なっているし、ヨーガのポーズ名にも、しばしば動物の名前が付けられている。
|クルマ《亀》・アーサナ、|マユラ《孔雀》・アーサナ、シンハ・アーサナ、などヨーガには仏典やインド武術に共通する動物のポーズが多く取り入れられているのだ。
そこまで考えて、私の記憶が再び、フッと疼いた。
確か、ヨーガの『シンハ・アサナ』というものは、舌を長く突き出してアッカンベーの状態を示す、奇態なポーズではなかったか、と。
調べてみると、やはりそうだった。
ヨーガのポーズ、シンハ・アーサナは確かに舌を長く突き出すものだった!
今まで荒唐無稽なマンガにしか思われなかった、ブッダとセーラ・バラモンとの広長舌相のエピソードが、にわかに「瞑想ヨーガ」と重なり合った瞬間だった。
何しろ私がヨーガをある程度本格的に学んだのは、今から25年以上前の大昔で、細部における様々な記憶は忘却の彼方にかすんでいたのだが、ここへきて一気に回想が加速してきた。
そう言えば、ハタ・ヨーガの実践には、舌を口腔内でまくりあげてその先端で気道を塞ぐという、ケチャリ・ムドラと呼ばれる行法もあった。
上の画像を見ると、ピンク色の舌をのどの奥に反転ストレッチしていって、ついには鼻腔の奥に到達する様子が見て取れる。
実際にやってみると分かるのだが、舌を上図の最終形にまで伸ばして気道を塞ぐと言うのは容易な事ではない。舌の裏には独特の筋があって、舌の反転を邪魔しているからだ。
そこで古のヨーギ達は、ストレッチの妨げになる舌の裏にある筋を少しずつ剃刀で切っていって、最終的に鼻腔の奥にまで届くほど舌を長く使えるようにしていったという。
ヨーガを学んだ時に何かでこのエピソードを聞いて強く印象付けられていたのだが、ようやくここにきて、私はそれを思い出す事ができた訳だ。
このケチャリ・ムドラというものは、ヨーギン達が剃刀で舌の裏の筋を切ってまで体得したいと考えたくらい、ヨーガの瞑想実践を深める為に、極めて重要な意味を持っているテクニックだったのだろう。
何故このような一見不可解な行為によって瞑想が深まるのか、という点は、脳神経生理学的な機序そのものであり、ブッダの呼吸瞑想とも深く関って来る。
ケチャリ(Khechari)の意味は、KheがKha、すなわちブラフマンを意味する「空処」を表し、チャリ(Chari)が動く、行く、という意味で、その正味は一般的に『性的禁欲』や『清浄行』を意味する ”ブラフマ・チャリア” とほぼ同義だ。
最後のムドラ(Mudra)は、この文脈では『封印』になるので、ケチャリ・ムドラの意味は以下の様になる。
【それをする事によって、ブラフマンの解脱境に行く事ができるムドラ】
上に ”Kha” という聞きなれない語が出てきたが、これはインド思想において極めて重要な意味を持つタームで、今後 ”車輪の軸穴”や“心臓の中の空処” とのからみで、本マガジンでも取り上げていく予定だ(車輪の軸穴としての空処=心臓の小部屋としての空処=Kha=絶対者ブラフマン)。
ここで注目したいのは、このケチャリ・ムドラの行では、顔面の内部において、鼻(鼻腔の最奥部)を舐めている、と同時に、前回言及した “耳管開口部” をも舐めている、という事だ。
そして、上図をはじめネット情報をリサーチすると、このケチャリ・ムドラの実践によって、体内のプラーナを頭頂のサハスラーラ・チャクラに導くと言う効果が期待されているらしい。
ここへきて広長舌相のエピソードは、私の中で完全に瞑想実践とシンクロした『意味』として、感得され始めていた。
セーラ・バラモンがブッダと対話した時、おそらくブッダは結跏趺坐もしくはそれに準じた坐相、つまりアーサナをとって坐っていたはずだ。
その状態でまず舌を下に長く伸ばす。この姿は正にヨーガにおけるシンハ・アーサナに対応している。
何故なら仏の32相にも見られるように、ブッダは常に、まず第一には偉大なる獅子王として讃嘆されていたからだ。
その獅子王としてのブッダが、坐相をとりながら舌を長く伸ばして出した姿は、正にシンハ・アーサナそのものと言えないだろうか。
そして、その後に、ブッダは耳と鼻と額を順に舐め上げる。
これはケチャリ・ムドラにおいて、舌をのどの奥に伸ばして、『内部で』耳管開口部と鼻腔最奥部を舐める事に対応している。
分かり易く言えば、広長舌相のエピソードもヨーガのケチャリ・ムドラも、共に舌を極限まで伸ばすという営為と、耳と鼻という器官に舌で “触れる”、という営為においては、完全に重なり合うと言う事だ。
そしてブッダが最後に舐めた額に位置するアジナー・チャクラ。これはケチャリ・ムドラにおいて、その効果・作用が頭頂部のサハスラーラ・チャクラ(シヴァ・ブラフマンの座)を活性化し、瞑想実践を特段に深める事と、有意に対応してはいないだろうか。
もちろん、サハスラーラ・チャクラとアジナー・チャクラは、ヨーガの思想においてだけではなく、“神経生理学的にも”、密接に連関しているだろう。
以上が、広長舌相に関する、第三の読み筋だった。
これは以前から感じていた事だが、現代までにヒンドゥ・ヨーガとして継承されてきた一連の思想と方法論の多くが、実は最初期の仏教サンガ、なかんずくブッダ本人によって開発・普及され、基礎づけられたものではないか、と私は考えている。
ゴータマ・ブッダこそが、バリバリの元祖ヨーギンであり、インド宗教思想史における瞑想ヨーガの初代第一人者だったのだ。
そのような視点を持ってパーリ仏典を読み解いていく事によって、ブッダの瞑想法の核心部分が、鮮明にあぶり出されて来る。それが、パーリ経典と並行してヴェーダ、ウパニシャッド、ヨーガの古聖典などを徹底的に読み込んだ結果、私がたどり着いた結論だった。
次回以降詳述する予定だが、この「ブッダこそがヒンドゥ・ヨーガ行法の事実上の開祖である」という視点は、上座部仏教のパーリ経典に明示されている「顔の周りにサティを留めて」という瞑想実践上のガイダンス、その根底にある「六官の防護」、そしてこれら二つとも今回の文脈とも深く関連する「歯と舌の行法」などが、現代に至るヒンドゥー・ヨーガの伝統の中に脈々と息づいている事実からも、容易に導き出される読み筋だった。
今後の投稿では、そんな【元祖バリバリのヨーギン】としてのゴータマ・ブッダ、という視点をベースに、パーリ経典の諸相を読み解いて行こうと思う。
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