世界最古の伝統武術:カラリパヤット 1
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ケララ州のマラバール海岸に位置するカリカット(コジコデ)は、ヴァスコ・ダ・ガマが始めてインドに上陸した地点として名高い。かつてはスパイス貿易の中継地として栄え、遠く中国や地中海世界からの交易船が行き交ったというが、現在は近代的な新市街と昔ながらのバザールが見事な対比を見せる商業都市として賑わっている。
そしてもうひとつ、私は寡聞にして知らなかったのだが、この町はワダッカンと呼ばれる北派カラリパヤットの本場としても、その歴史を刻んできた。
カラリパヤットについて紹介するためには、その前に大雑把にインドの歴史を説明する必要があるだろう。遥か昔、紀元前1500年頃の事だ。中央アジアから移動を始めたアーリアを名乗る遊牧民の集団が、一部はそのまま南下して後のイランに定着し、もうひとつは東へと向かってカイバル峠を越え、インド亜大陸の北西端、パンジャブ(五河)地方と呼ばれるインダス川の上流域(現在はパキスタン領)に侵入した。この集団は現在、インド・アーリア人と呼ばれている。
彼らは圧倒的な武力の優位を背景にドラヴィダ人など先住民社会を征服し、やがてヴェーダの宗教を奉ずる部族社会を形成する。肌の白いアーリア人は先住民を肌の黒い者(ダスユ)と蔑み、ここに肌の色(ヴァルナ)を基準としアーリアのバラモン司祭を頂点としたカースト制度の基礎が築かれた。
その後アーリア人はガンジス・ヤムナー川流域、現在のデリー周辺に進出、先住民の農耕技術を取り入れて定着し、両者の文化は緩やかに融合し社会は安定していった。その侵略と融合と安定化のプロセスの中で、バラモン達は様々なヴェーダ文献を生み出していき、北インド一帯にアーリア・ヴェーダの文化が卓越した社会を形成していく。その中で武術と戦術についての方法論を扱ったものが、ダヌル・ヴェーダ(弓の科学)と呼ばれている。
一方、アーリア人の直接的な支配が及ばなかった南インドでは、先住のドラヴィダ人によって豊かな伝統が育まれ、それは紀元前後に、現在のタミルナードゥ州を中心としたサンガム文化として開花した。このサンガムの時代は文芸を中心に様々な文化が発展したと同時に、尚武の気風が尊ばれた時代でもあった。諸国の王は武術を奨励し、戦士達はスポーツの様な感覚で戦いに明け暮れた。この時代に発達したのがドラヴィダ武術、あるいはタミル武術と言われる。後にカンチープラムに生まれた達磨さんが帝王学の一環として習得したのもこの武術だろう。
やがて民族意識の台頭と共に現在のケララ州がタミル世界から分離し、マラヤーラム語をはじめとした独自の文化を形成し始める。その中で、タミル武術の血を引くケララ独自の武術も形作られていった。
西暦五世紀の中ごろになって、新たにペルシャ系のフーナ族が西北インドを侵略し始め、彼らはその後、現在のグジャラート州方面にまで勢力を広げていった。その結果、その地に住んでいたバラモン達が追い出されて難民化し、西海岸沿いに南下してついにはケララにたどり着いた。ここにおいて、バラモンが携えてきたヴェーダの武術とケララ土着のドラヴィダ武術が劇的に融合し、現在のカラリパヤットの祖形となった。(伊藤武著「ヴェールを脱いだインド武術」参照)
カラリパヤットは時代と共に発展し、少なくとも12世紀までには現在と同じようなシステムとして大成され、16世紀にはその最盛期を迎える。しかしヨーロッパ人の進出によって銃や大砲などの火器がもたらされると、カラリパヤットは急速に実戦的な意味を失い、イギリス植民地時代に至って反抗の象徴として弾圧されるや、壊滅的なダメージを受けてしまう。だが一部の有志によってその技は地下に潜り、貴重な伝統はかろうじて消滅を免れる事となった。
そして20世紀前半、重なる大戦によるヨーロッパの疲弊を背景に、植民地からの独立を目指す民族主義がインド全土で台頭する頃、ケララでもひとりの武術家によってカラリパヤットが再興される。その名をC.V.ナラヤナン・ナイール・グルッカル(グルッカルは師範を意味する尊称)という。彼はインド全土でカラリパヤットのデモを行うと同時に、ケララ州内で多くの弟子を育てた。
中でも最も優れた愛弟子のひとりゴパラン・グルッカルが、インド独立後カリカットに新しい道場を開き、その道場からは多くの優れた弟子が育った。元々マラバール海岸一帯はカラリの盛んな土地だったが、彼の活動を契機として、カリカットはカラリパヤットの現代的なメッカへと発展していったのだ。
日本の初夏の様な爽やかな天気が続く12月の下旬、私はこの町に到着した。そして偶然の出会いから、今は亡きゴパラン・グルッカルの子息であるヴィジャヤン・グルッカルの元に、念願の弟子入りを果たしたのだった。
カラリ道場の朝は早い。乾期の12月ではまだ漆黒の闇に包まれた早朝の5時前には、気の早い子供達がやってくる。少し遅れて、グルッカルが現れて道場の鍵を開ける。ケララ地方独特の古い木製の扉が、ギギーっと重たい音を立てて押し開かれると、グルッカルは階段を降り、右足から道場の床へと一歩足を踏み入れる。
道場はおよそ縦12.8m横6.4mの長方形で、入り口のある東から東西に長く建てられている。道場の床はむき出しの地面。クリカラリという伝統的な様式では深さ60cmから180cmに掘り込まれている。この半地下構造が道場内の空気を低く一定に保ち、激しい稽古による過熱を抑える仕組みになっている。切妻型の屋根の最上部までの高さはやはり6.4m。緻密に編まれた椰子の葉を重層的に重ねる事によって、激しい雨期のスコールにも雨漏りはしない。東西に面した壁の上部には換気窓が開けられ、一年を通してアラビア海から吹きつける西風が稽古による熱気を吹き消していく。
入り口の反対、南西の角にはプータラという7段の祭壇が設けられている。これは7つのヨーガ・チャクラに対応するもので、頭頂部のサハスラーラ・チャクラに相当する最上段には守護神が祭られている。このプータラ、本来の形は丸い円壇なのだが、その四分の三は目に見えない神の領域に属し、四分の一だけが切り取られて道場に現れている形になる。
西壁全面から4隅の角に至るまで様々な神々が祀られているが、主神としてプータラに祀られるのは、一般にカラリ・バガヴァティ、あるいはカーラ・バイラヴィと呼ばれる女神で、理念的にはシヴァ神と結合した形で祀られる。この事から、カラリパヤットの根底に女神のシャクティ(性力)を奉じるクンダリーニ・ヨーガ思想があることがわかる。
グルッカルが神々に花を捧げオイルランプに火を灯し、線香をたいて弟子達を迎え入れると、辺りはにわかに活気付き、神々もまた目覚めた様に神気が横溢し、道場の一日が粛々と幕を開ける。
服を脱ぎ、カッチャと呼ばれる巻きフンドシだけを腰に締めた裸の男の子達が、その身体にゴマ油をすり込んでいく。頭の天辺からつま先まで入念にオイルをすり込む事がセルフ・マッサージとなり、同時にその動きは全身のストレッチにもなっているという。
北インドを中心に発達したクシュティの場合と違って、カラリでは女の子の姿も見る事ができる。これは元々母系制であったドラヴィダ社会の名残かも知れない。さすがに裸というわけにはいかず、パンジャビ・ドレスなどを身につけて道場に花を添えている。
やがて準備のできた子供から祭壇に向かい、右手指先で最下段に触れ、その手を額に、そして胸へと触れていく。主神以外にも祀られた様々な神々、そのすべてに礼拝し終えた子供達は、最後にグルッカルの元を訪れ、低頭して彼の右足に触れ礼拝を締めくくる。グルッカルもまた彼らの頭に祝福を与え、いよいよ稽古の始まりだ。
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