マスクという記号による思考硬直からの脱却
新型コロナが蔓延して2年以上経つが、
いまだに日本ではマスク信仰が根深く存在している。
小生は、飛行機や医療機関といった限定的なシーンでは
マスクの装着に従うが、それ以外のシーンではマスクをつけていない。
マスクが感染予防につながらないと言いたいわけではないが、
それ以上に怖いのは、人間の思い込みや同調圧力だからである。
例えば、居酒屋なんかを例にとってみても分かる通りだ。
入店時はマスクを付けてくださいと強く言われても、
店内では大声で飛沫を飛ばして会話をしている光景がほとんどだ。
パーテーションも形だけであり、
横同士はパーテーションなしで会話している
パーテーションが低すぎて機能していないというのはザラである。
このように人間は、本来の目的を忘れて、
社会の枠組みや形にばかりに意識が向いてしまうという
用途の目的化ということは往々にして多い。
・大学に行くのが、入試合格を目的としてしまう。
・結婚は幸せになれるゴールだと勘違いしてしまう。
・年収が高ければ、人生安泰だと思い込む。
などなど、人間は人生を楽にさせようとすると、
知らず知らず負のループに陥ってしまう思考硬直の罠がある。
だからこそ、コロナもマスクもワクチンも、
この思考の硬直化に陥らない視座を持つことが大切になってくる。
マスクをしなければならないというのも、
マスクで飛沫を飛ばさない、ウィルスに掛からないようにする、
ではなく、集団に依拠し、他者と同じ行動をすることによって、
自分は集団に準拠していますという心理的安定を求めるが故の行為なのである。
他者と同じ行動をしたいという本能は、
ミラーニューロンという概念からも生体的特性として認められているが、
そこに自己決定の意志を欠いてしまうと社会の枠組みの中に、
自己の存在性が埋没してしまい、自己決定ができないようになってしまう。
その後に起きる行動とは、組織に属している名目の下での個人となるわけである。
・○×会社の〜〜部長だから、これを指示する。
・○×学校の〜〜校長だから、何々でなければならない。
と、社会の枠組みに規定された行動意識が芽生え、それが過剰になってしまうことで、自分が個人としてどう考え、どう行動し、どう在りたいかが見えなくなってしまうのである。
そうすると、接する事象を記号として捉える発想が生まれるのである。
・マスクを付ければ安心
・マスクを付けていない人はおかしい
例えば、昭和の頃は、マイホームを買うのが当たり前、24時間働くのが当たり前と、
そのものの本質に着眼するのではなく、
マイホームを所有すること、24時間働いていることが、
記号としての自分となり、それをアイデンティティとしてしまうわけである。
そのような一義的な社会では、労働も搾取の考え方になり、
使えなくなったら捨てられる、人も物も。
すると社会的な記号が無くなった際に、自分は一体なんだったのかと
ようやくその時点で気付くわけである。
例えば、社会的な地位がある人が、今まで権威を振りかざして指示命令を行なっていたが、
所属や地位を失った瞬間に、誰も見向きをしてくれなくなり、
自分が何かに依存しながら生きていたことにようやく気づき始めるといった次第である。
だからこそ、社会的記号に溺れることなく、
本質的な意味を探っていく思考習慣が大切になってくるのである。
マスク以外にも、社会にはさまざまな記号に溢れている。
記号そのものが悪いわけではない。
記号を多面的に理解していき、一つの物事に捕われない思考をしていくことで、
世界における様々なアクターの存在を多義的に受け容れていくことで、
自分の心の光がプリズムのように豊かな色を帯びてくるのである。