たまには、空でも見て帰ろう。
「五條くん、お疲れ様!」
「おう!お疲れ!」
また、地下に潜られてしまった。同じ駅を使うご近所さんのはずが、三橋さんは甘く軽やかな香りをふわりと漂わせてJRに乗らず銀座線の入り口に向かう。
俺って実は嫌われているのか。そう思ってしまいそうになるが、彼女の地下鉄好きは職場で知れ渡っている。しかも、銀座線と日比谷線が好きなんだそうでその両方を利用できるという理由で上野駅と御徒町駅の中間くらいに住んでいる。大江戸線も使えるからだろうか。
神田駅のエスカレーターに乗りながらつい考えてしまう。自分も御徒町周辺に住んでいるのに、一度も一緒に帰ったことが無い。やはり、実はかなり嫌われてるのか。
三橋さんが使っている香水はハッピーアワーという名だそうだ。
パチャランというスペインのブルーベリーに似た果実を使ったお酒を思い出して、陽気な気分になれるところが好きだと言っていた。
いつも良い香りを纏っているので、姉の誕生日プレゼントにとアドバイスを求めたことがある。姉のイメージに合っているラッキーという名の香りを教えてくれた。そのうえ、次の日には小さいサンプルをくれた。ショートヘアで長身の活発な姉に似合っていた。さわやかな大人の女性にあうスズランの香りで、とても気に入ってくれた。
嫌われてはいないと思う。むしろ親切にしてくれている。だけれど、それは波風を立てないためかもしれない。
彼女は、八方美人と言われることなく誰からでもいい人と言われるタイプだ。
御徒町の駅に着く。降りてすぐ「ハッピーアワー 19時まで」という居酒屋の看板が目に入ってしまった。今日は、ノー残業デーだ。地下鉄とメゾンクリスチャンディオールの香水が好きな、同僚の美女のことはとりあえずビールを飲んで隅に追いやろう。
俺は、パチャランとかいう海外のリキュールなんて分からない。三橋さんに聞いて検索して、初めて知った。
ディオールの香水も、百貨店の化粧品売り場のディオールに行けば手に入ると思っていた。家から近い上野松坂屋に行った。そうしたら、メゾンクリスチャンディオールの香水は限られた販売店に足を運ぶか、オンライン購入だけであることを知った。銀座に行くことなんてほとんどないのに、おっかなびっくりしながら銀座SIXまで買いに走った。それが、三橋さんと話すためのネタになってくれたのはありがたかった
ビールを飲みながら、もつ煮込みを食べつつ、そんなことを思い出していた。料理もそこそこおいしければ構わない。なんというか、こだわりがない。
それにしても、毎日暑いからビールが美味しい。店のエアコンも若干温度設定が高めな気がするが、ハッピーアワーだからその戦略にはまんまとひっかかってあげよう。
二杯目のビールと一緒に、肉豆腐とアジフライを注文する。お盆休み明け初めてのノー残業デーで、労働後のお酒の味が格別であることを改めて感じる。平凡だけれど、幸せだ。
だが、ビールで流して隅に追いやるはずだった三橋さんのことを思い出してばかりいる。
仕方のないことだ。平凡で何か取り柄があるわけでもない自分が、会社から神田駅の間までたまに美女と話をしながら歩けることがある。そして、その美女は近所に住んでいて同じ駅を利用するはずなのに違う路線に乗ってしまう。近所なのだから電車にも一緒に乗って、もう少し話す時間もあるはずなのにそれが出来ない。彼女の鞄には銀座線のマークのチャームが付いているくらいだから、俺が銀座線を上回る存在になることはなさそうだ。
四杯目のビールを飲み終えたところで、二十時過ぎた。そろそろお勘定をして、酔い覚ましに上野公園でも散歩しよう。このまま家に帰ると、冷蔵庫の缶ビールを開けてしまいそうだ。
店を出て、春日通り沿いを歩き上野松坂屋前の上野広小路の交差点を渡る。この時間になっても、この辺りは活気を失わない。そして、残暑が厳しいからか通り沿いの飲食店も賑わっている。
中央通りを不忍池を目指して歩く。初競りでマグロを高額落札する社長さんが有名なお寿司屋さんやお財布に優しい価格のイタリアンレストランが入るビルの前を通る。
そのビルから、良く知った姿が出てくる。お寿司屋さんから出てきたのでもなければ、イタリアンレストランから出てきたのでもない。
俺は足を踏み入れたことのない、独特の雰囲気を放つ鈴本演芸場から三橋さんがひとりで出てきた。三橋さんと落語。
予想外の取り合わせに驚いている間に、目が合う。
「五條くん!」
なんと、向こうから声を掛けてくるとは。
「おう!落語聞いてたの?」
「うん。今日は早めに入れてよかったよ。」
「よく来るんだね。」
「早く帰れる日はだいたい寄ってるよ。五條くんは?」
彼女は余程沢山笑ったのか、表情も声も上気している感じだ。普段のミステリアスだけれどおっとりとした感じの雰囲気とはまた違って、視線を奪われる。
「あ、あーっと吞んでたわ。そんで酔い覚ましに不忍池の周りでもぶらぶらしようかと思ってさ。」
「そうだったんだ!もしよかったら、お散歩じゃないけど酔い覚ましに一緒にお茶しない?」
ちょっと待ってくれ。急に誘われるなんて思ってもみなかった。返事は一択だけれど。
「私、笑いすぎて小腹すいちゃったから、そこのあんみつやさんにでも行こうかと思ってたんだ。」
「あっ、あー!いいよ行こう。」
この状況に頭がついてきていないけれど、彼女とあんみつやさんまでまたおしゃべりを続ける。
「ありがとう!今日笑いすぎたから、急に一人にならなくて良かったー。」
「俺も、一人でぶらぶらするつもりだったから、ありがとね。んでさ、俺、落語って聞いたことないんだけれどそんなに面白いの?」
三橋さんの表情が、一段と明るくなった。好きなことを話したくて、うずうずしている人の顔になっている。目が爛々と輝いている、という言葉がぴったりだ。
「面白いよー!同じ話でも噺家さんによって雰囲気が変わったりとか、鈴本以外の場所に行くとまた雰囲気が違うところも面白いんだ。良かったら今度、一緒に行かない?」
ちょっと待ってくれ。また、急に誘われるとは思ってもみなかった。またしても、返事は一択だ。
「もちろん!いいよ!今度のノー残業デーにでも!」
「ほんとに!ありがとう!鈴本付き合ってくれるとかすごい嬉しい!」
俺は、鈴本じゃなくても誘われれば行く。三橋さんは気づいていないことがこれで分かったけれど、俺は三橋さんに興味があるから、三橋さんが興味のある事を知りたいだけだ。
「五條くん、ありがとう!あんまり興味示してくれる人いなかったから、本当に嬉しい!」
「せっかく近所にそういうところがあるんなら、覗かないのも勿体ないじゃん。声かけてくれてありがとな。」
何とか、それとなく誘いに乗る理由をつけた。
「じゃあ、来週のノー残業デーの帰りは銀座線に乗ってね。」
「え?それは構わないけれど、なんで?」
俺が彼女の中で、銀座線に敵わないことは分かってるけれどそれをわざわざ上塗りしてこなくてもよいではないか。
「JRからだと歩いて五分かかるんだけど、銀座線だと一分で鈴本に着くんだよ。」
三橋さんは相変わらず、甘くて軽やかな香りを漂わせながら、目を爛々と輝かせている。
俺は、きっと彼女の好きな地下鉄に乗って、彼女の好きな寄席に行ったり落語を聞きに行くということを重ねる。好きなものに付き合っているうちに、俺のことも好きになってくれたらありがたいと欲張ったことを考える。
聞いたことのないような名前のお酒を沢山知ることになるかもしれないし、良く知らない噺家さんたちのことについて詳しくなるかもしれないし、平気な顔をして銀座を歩けるようになるかもしれない。
まだ知らない彼女の好きなものを知っていくことで、自分が知ることが無かったかもしれない物を知るかもしれないことが楽しみだ。
来年の夏くらいには、ノー残業デーの帰り道に彼女を誘ってJRに乗れたらいいなと思う。
「まだ日が長くて、明るいからさ。たまには、空でも見て帰ろう。」
駅のホームから見る夕暮れが、結構捨てたもんじゃないことを教えたい。