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【ゲルト追悼特集①】後の「ドイツの爆撃機」ゲルトをばいやんに向かわせた、列車の遅延とは...

—— 以下、翻訳 (ドイツ『ビルト』紙の記事全文)

我々の最も偉大なストライカーは、長く患ったアルツハイマー病のために日曜日に息を引き取った。だが、ゲルト・ミュラー(享年75歳)は多くのサッカーファンの心の中で生き続けることだろう。ドイツ『ビルト』紙では、新たなシリーズ企画として、この爆撃機のストーリーを紹介していく。

今日は、キャリア初期の頃の話。定刻より遅れた列車が、彼をFCバイエルンに連れてきた理由とは...

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1964年春のある日曜日。 ビリヤードを終えて帰宅したゲルト・ミュラー(当時18歳)は、唖然とした。母親カロリーナの隣に座っているのは、ヴァルター・フェンベックという紳士だ。

FCバイエルンの社長は、地元ライバルの1860ミュンヘンが、このネルトリンゲンの若きストライカー(28試合47ゴール!)に興味を持っていることを知り、交渉のために140キロの距離を車で移動してきたのだ。賢い選択だった!

というのも、レーヴェン(1860ミュンヘンの愛称)のルートヴィヒ・マイアーベック社長は、ネルトリンゲン行きの列車に乗り、この列車に遅れが生じたからである。これが、致命的な結果となった!

ようやく1860の社長が到着すると、バイエルンのフェンベック社長はすでにミュラー家族の承諾書をポケットに入れ、裏口からこっそりと出て行った...

フェンベック社長は近くのレストランで、ミュラー家の人々が1860の代表者を見送るまで待っていた。そして帰路に就き、バイエルンとの移籍を確定させた。7月10日、当時2部リーグに所属していたバイエルンとの契約が成立したのだ。TSV ネルトリンゲンへ支払った移籍金:4,400ドイツマルク*(約40万円)*注:当時のレート 1DEM=90JPY で換算

それは、サッカーの歴史の皮肉である:フランツ・ベッケンバウアー(現在75歳)もまた、憧れのクラブである1860ミュンヘンに行く可能性も大いにあった。だが、彼は SC 1906 ミュンヘンでプレーしていたユース時代に、対戦した1860の相手選手から顔面に平手打ちを受けた。そして、フランツは決心した:1860に?絶対に行かない...

ベッケンバウアーとミュラーは、平手打ちと遅刻のおかげで、2部リーグ(当時はオーバーリーガ南地区)のFCバイエルンをサッカー強豪チームに押し上げたのだ。

ミュラーの初顔合わせは、思わぬ形となった。"チック"・チャイコフスキー監督は、新たなセンターフォワードの姿を見て途方に暮れた。「この男をどうすればいいんだ?ウェイトリフティング選手のような脚じゃないか」。そして、ゲルトはベンチ送りに。

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当時、ミュラーの太ももは61cmで、後に妻となるウッシーさんのウエストより1cm太い。

この年の10月、ヴィルヘルム・ノイデッカー会長は、我慢の限界に達する。彼はこのシャイなストライカーを起用するよう指示を出したのだ。1964年10月18日、ミュラーはフライブルク戦でバイエルンでデビューを果たす。11対2(!)の試合で、「ぽっちゃりミュラー」は1ゴールを決め、それ以降、常に起用されることになる。

彼の給与:毎月500ドイツマルク(約4.5万円)。そして、この金額は他の選手と同様に、ゼーベナー通りの事務所で秘書から現金で手渡される。その傍ら、ミュラーは家具屋でも働いている。60年代、今とは異なる時代だ...

1965年10月、ゲルト・ミュラーは人生最大の幸運に遭遇。ミュンヘン東駅にあるカフェ「チボー」でコーヒーを飲んでいる時に、ウッシー・エベンベックさん(当時16歳)と出会った。それから2年も経たないうちに結婚のベルが鳴った。

60歳の誕生日に行われた『日曜版ビルト』紙のインタビューで、ウッシーさんは、ミュラーについて「他の女性なら耐えられなかっただろう」と明かしている。

試合を終えて帰宅した夫の心境を、ウッシーさんはすぐに察するのだ。

「悪い試合の後にあえて批判すると、彼は怒った」と、1969年の『ビルト・シュポルトブーフ』で語っている。

ゲルトは野心と勝利の意欲にあふれていた。例えば、トゥッツィンク(シュタルンベルク湖)との練習試合で、15対0になると、相手のセンターフォワードがGKゼップ・マイアーに近づき、ゴールを「くれないのか」と尋ねた。

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その直後にセップがボールに飛び込んだシーンで、ミュラーはハーフウェイラインからGKのところまで走ってきて、口笛を吹く。「相手にゴールなんて与えない。練習試合だとしてもだ。」

人気が急上昇したミュラーには、エンタメビジネスからのオファーが来る。1967年、ゲルトはコメディ映画『Wenn Ludwig ins Manöver zieht(もしルートヴィヒが軍事演習に参加したら)』で、チャイコフスキー監督やゴールキーパーのマイヤーと一緒に脇役として出演することになった。

『ビルト』紙の記者である筆者も制服を着ている。私たちの主な役は、勤務中に可愛い農民の女の子に言い寄ることだ。

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1967年:『Wenn Ludwig ins Manöver zieht』の撮影で制服を着たゲルト・ミュラー(左)と『ビルト』記者のヘルベルト・ユング。

その2年後には、ゲルトはスタジオに入り、シングル「Dann macht es bumm(そしてドカンだ)」を収録する。

その「ドカン」は努力して身に付くものなのか、ゲルトに一度聞いてみたことがある。「ノー」とすぐに返ってきた。それには、"本能 "と "両足でのシュート "と "素早い反応 "が必要だという。「ゴールに向かってシュートするときは、考えてはいけない。考えたときには、どうせもう遅いのだから。」

ゲルト・ミュラーの台頭は、FCバイエルンの台頭でもある ー ブンデスリーガ昇格の1965年

▶ ブンデスリーガ昇格1年目にしてリーグ戦3位、DFBポカール優勝

▶ 2年目には、2つ目のタイトルである「UEFAカップウィナーズカップ」を制覇。そして、28ゴールを決めてリーグ得点王と、ドイツ年間最優秀選手賞を獲得

チック・チャイコフスキー監督がシーズン終了をもって退任。このユーゴスラビア人指揮官は、ゲルト・ミュラーに今となっては有名な「バイエルンの遺伝子」を植え付けた。トレーニングの最後には、(自ら試合に出場した)チックが自分のチームが勝つまで選手たちを交代させた。そうして、ようやくトレーニングが終わるのだ...

後に、ゲルト・ミュラーは次の試合のことを聞かれたら、必ず「勝つのは我々だ」と答えることになる。

ブランコ・ゼベッチ監督のもと、1968年のバイエルンには新しい風が吹く。プレシーズン期間中には、1日3回のトレーニングを実施。シーズン中は、それが1日2回になることもしばしば。

7キロ減量したミュラーだが、相手選手のユップ・ハインケスに対するタックルで8週間(!)もの出場停止処分を受けた。

1969年、ミュラーはリーグ得点王(30ゴール)となり、初めてドイツ王者に輝いた。

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パート2を乞う

欧州王者!W杯王者!?そして、代表チームでの突然の引退

ハインケス:「ゲルトが笑っていたような気がした」
かつて、ライバルのグラードバッハの選手であり、後に友人となったユップ・ハインケス氏(76)が『ヴェルト』紙でゲルト・ミュラーについて語っている。
ハインケス氏が最後にバイエルンの監督を務めた2017/18シーズンに、ヘルマン・ゲルラントとともに養護施設の「爆撃機」を訪問した時のことだ。「彼が笑っているような気がしたんだ。彼は幸せそうだった。病気になっていることもわかる。ある医師と話したことがあった。その医師はこう言ったんだ。認知症の人は自分の世界に住んでおり、周りの親族と同じようには物事を感じられず、本人にはその世界が苦痛になることが多いと。」

▼元記事
https://www.bild.de/sport/fussball/nationalmannschaft/bild-serie-gerd-mueller-weil-ein-zug-zu-spaet-kam-landete-er-bei-den-bayern-77404370.bild.html


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