E・T・A・ホフマン「砂男」
ドイツのロマン派作家ホフマンが「砂男」を発表したのは1817年。ナポレオン戦争終結直後だ。プロイセンは1840年ごろから産業革命が始まり、資本家が台頭し、前時代とは全く違う世界に突入する。農業国から工業国になり、鉄道も開通する。工場労働者たちはほぼ奴隷状態で働かされる。力を持ち始めた資本家と、不満が溜まった労働者という形で国民は分断される……そんなふうに時代ががらりと変わってしまう前の、「古き良き時代」の空気を、ホフマンは幻想小説の中に封じ込めている。
蝋人形、魔法、妖精、機械人形、錬金術、おとぎ話……。
「早くベッドに入らないと砂男が来ますよ!」
「砂男ってなに?」
「夜遅くなっても眠らない子供のところにやってくる怪物のことですよ! 砂男は起きている子供を見つけたら、目の中にひとつかみの砂を投げ入れる。そうしたら、子供の目玉はポーンと飛び出してしまう! 砂男はその目を袋に入れて持っていくんですよ」
主人公・ナタナエルは幼いころに乳母から砂男の話を聞き、その恐ろしい姿が心から離れなくなってしまう。そして、頻繁にナタナエルの父を訪ねてくるあくどい老弁護士コッペリウスに砂男の姿を投影してしまう。
コッペリウスは大柄で、土色の大きな顔に意地悪く歪んだ口。骨ばって毛深い手。コッペリウスはその獣のような手で、ナタナエルと妹のためのケーキや果物にわざと触り、台無しにする。それを見てナタナエルと妹がすすり泣くと、コッペリウスは大笑いして喜ぶ。ナタナエルの父は、コッペリウスのそんな振る舞いにも耐え忍び、機嫌をとろうとする……。
ある夜、コッペリウスとナタナエルの父が書斎にこもっていると、突然爆発が起こる。書斎からは煙がもくもくと流れてきて、父親は仰向けに倒れ、すでに亡くなっていた。コッペリウスは逃げ、それきり行方不明だ。コッペリウスと父は書斎で錬金術の実験をしていて、そこで事故が起きたのだ。しかしナタナエルはコッペリウスがわざと父を殺したと疑っていた。砂男とコッペリウスに対するトラウマはますます深まることになる。
数年後、青年になったナタナエルは、物理学教授スパランツァーニ教授の下で学ぶために家を離れてG市に滞在していた。
しかし、砂男やコッペリウスの影は常に付きまとい、ナタナエルの精神を蝕んでいく。
そして、休暇でG市から帰郷したナタナエルはすっかり豹変してしまっていた。それまでは学問や芸術に熱心に取り組んでいたナタナエルだったが、神秘主義や心霊主義に没頭し、その中で生きるようになっていた。
恋人のクララの前で神秘主義の本を朗読したり、具体性を欠き支離滅裂な物語や詩を書いては読んで聞かせるようになった。
「ぼくの心はあの悪魔に……悪魔でもあり砂男でもあるコッペリウスに取り憑かれてしまった。悪魔が君との幸福をも邪魔しようとしているんだ、クララ」
「ナタナエル、コッペリウスにはそんな力はないわよ。あの男が邪悪なのは真実だとしても、そこまで力を与えてしまっているのはあなたなのよ。全てあなたの心が作り出しているだけなの。バカバカしい妄想はきっぱり捨て去りなさい」
不安な気持ちをクララに一蹴されたナタナエルは激怒した。
ふたりの心は離れていった……。
G市に戻ったナタナエルは、スパランツァーニ教授の家に、天使のように美しい風変わりな少女がいるのを見つけた。
講義室に向かうために廊下を歩いていたナタナエルは、とある部屋のドアの隙間から、うつむいて座っている少女の姿を見た。ふせた目、組み合わせた両手。全く動かないでじっと座っている。どうやら彼女は教授の娘で、名前はオリンピアというらしい。
ナタナエルは美しいオリンピアに心を奪われた。
クララのことはすっかり忘れていた……。
それからのナタナエルはオリンピアのためだけに生きていた。
毎日教授の家に通い、彼女の隣に座って何時間でも語り続けた。
今までに書き溜めていた詩や物語を何時間も読んで聞かせた。
オリンピアはじっとナタナエルの言葉に耳を傾けていた。
クララのように馬鹿にしたりはしてこない。
ナタナエルが気に入っている箇所を読むと、オリンピアも生き生きと目を輝かせたように見えた。
オリンピアの手に自分の手を重ねた。彼女の手は氷のように冷たい。
しかしナタナエルが愛を囁くと、彼女の手は脈打ち、血が通い始めたように感じた。
「あぁオリンピア、ぼくのことをわかってくれるのは君だけだ……ぼくと君の心は強く共鳴している……君の深い心には、ぼくの全てが映し出されている……」
オリンピアはダンスをする。ピアノも弾く。時々「愛しい人」と言ってくれる。しかし、それだけだ。それ以外は話さず、じっとナタナエルの言葉を聞いているだけだ。ナタナエルも心の奥では違和感を覚えていた。オリンピアはまるで……人形のようだと。だがそういう時は、「心が通じ合っていれば何も問題はない」と自分で自分に言い聞かせた。
そう……心が通じ合っていれば。
ある日、いつものように教授の家を訪れたナタナエルは、男たちが争っている声を聞いた。急いで声のする方へ行ってみると、スパランツァーニ教授がコッペリウスによく似た時計職人の男と言い争っていた。時計職人の男はオリンピアを抱えていた。
男と教授の足下には、目玉がふたつ転がっていた。
目玉が、ナタナエルの方を向いた。
時計職人の男に抱えられているオリンピアには、目がなかった。
黒い穴が空いているだけだ……。
愛するオリンピアは人形だった。砂男がオリンピアの目玉を奪った。父親は砂男に殺された。オリンピアは最初から死んでいた……砂男がナタナエルの心に取り憑いて、愛するものを何もかも奪っていく……。
ナタナエルは狂った。甲高い声で笑い、飛び跳ね、獣のように咆哮しながら教授の首を絞めて殺そうとした。その後、故郷に戻って精神は一旦落ち着くが、トラウマが再び蘇ってクララを殺しそうになり、最後は塔から飛び降りて死ぬ。
オリンピアは機械人形なので、心はない。
ナタナエルがコッペリウスの姿を借りて砂男という恐怖の象徴を作り上げたように、オリンピアもナタナエルが作り上げた、自分の理想の恋人だった。
オリンピアの目が輝いたのも、手が脈打ち血が通ったように感じたのも、全てナタナエルの心が投影されただけなのだ。
クララに自分の恐怖心を軽くあしらわれたナタナエルは、自分の話を否定せずにじっと聴いてくれる誰かが必要だったのかもしれない。
その「誰か」を自分自身で作り上げる必要があったのかもしれない。
かわいそうなナタナエル。
「君の深い心には、ぼくのすべてが映し出されている……君の愛の中にのみ、ぼくは自分を見出せるんだよ、オリンピア」