「昭和も遠くになりにけり」がんばろう!昭和一桁世代
月1回収録している岩手ケーブルテレビジョン「宮健のなんでも解説」の今日のテーマでした。
昭和一桁おじさんというと、何かと問題のある話題というのが昨今の風潮ですが、
中小企業診断士で経営コンサルタントの宮先生は昭和8年生まれ。私の父と同じ年齢です。
2年前、ありとあらゆる病名を背負って亡くなった父とは大違いでとても聡明でお元気です。
その宮先生の番組では、私が生きている中で決して自ら出会うことはないであろうテーマをお聞きすることが楽しみの一つなのですが、今日2月22日の解説はことのほか印象に残りました。
援農動員
学徒動員はよく聞きますが
あまり聞いたことのない言葉です。
昭和一桁というと1年~9年の9年間と思いきや、大正天皇が崩御されたのが大正15年12月25日だから、昭和元年生まれという方は12月26日~12月31日までの6日間しかないわけで・・・
しかも昭和一桁生まれの方々はまさしく世界恐慌やら日中戦争やら世界中が第二次世界大戦に向かっていた時代。
物心ついたときには鬼畜米英の世の中だったわけで・・・。
改めて貴重な歴史の証人だと感じました。
終戦を迎える昭和20年、宮先生は12歳。旧制盛岡中学校(現盛岡第一高等学校)に入学してすぐに、援農動員として戦中の食料確保のため、外山に設けられた宿舎へ向かったそうです。現在の盛岡市薮川ですね。
今なら中学受験で進学校に受かってウキウキの学校生活という感じですが、エリート校に受かったとたん、農作業のために山中で宿舎生活。しかもその年は岩手県でも空襲が相次いで起こっていた時期。そんな日常だったのかと、思わず胸が痛みました。
そして間もなく8月の終戦を迎えるわけですが、玉音放送当日まで、日本が戦争に負けることが信じられなかったそうです。
昭和一桁生まれは、まさしく時代に翻弄された世代だと思います。
鬼畜米英が一転してギヴミーチョコレートとなり、高度経済成長で飛ぶ鳥を落とす勢いでお金を儲け、豊かな暮らしの基盤を築いてきたわけです。自分たちのやり方で「何が悪い?」と思っても仕方がないのかな?とふと思ってみたり。(よもや問題発言、失言と言われる時代が来るとは思ってもみなかったことでしょう)
話は戻って援農動員。
日本各地で行われていたとのことですが、戦後は援農動員の関係書類は全て廃棄させられたということです。なのでその存在もあまり知られなかったとのこと。
しかもその援農に駆り出されたのは学徒だけではなく、農家の次男三男の皆さんも徴集されたとか。
今日の収録前に日報の論壇に昭和一桁について寄稿され、その反響が多く、中でも「援農動員」と聞いて、わざわざ番号を調べて電話されてきた方もいらっしゃったそう。亡くなったお父様がやはり「援農動員」だったと。
※宮先生はコンサルタント事務所を経営しているので番号が判明したのですね。
令和の時代になっても、口にしてはいけないと叩き込まれた世代の方々から、戦時中の「想い」は生ではなかなか聞くことがないのですが、今日はあまり語られることのない、生活者の視点での戦争のお話をお聞きすることができました。
もう二度とあってはならないことだけれど、決して忘れてはいけないこと。
宮先生にはお元気なかぎり、もっと昭和のお話を伺いたいと思いました。