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広島に生まれて

平和は政治や外交に委ねるだけでは絶対にやってこない。個人レベルでも一人一人が自分にいったい何ができるかを考えていくことがきっと大切なんだと思う。
78年前、この街に原子爆弾が投下された。確かに投下された。
広島に生まれた者は皆、必然的に幼少の頃から平和教育を受ける機会が多い。家族や学校の行事で平和記念公園に行ったり、被爆者の体験談を聞いたり、そして毎年8月6日の朝には黙祷し犠牲者の霊を弔う。けれども僕は未だにこの街にかつて原爆が投下されたという事実をどのように受け止めていいのかわからないでいる。

アメリカ人の多くは今でも「原爆の使用によってアメリカ人兵士の多くの命が救われた」との認識を持っているという。
一般的には広島と長崎への原爆投下によって日本のポツダム宣言受諾へと繋がり戦争が終結したと言われているが、だからといって核兵器の使用を肯定する論理には疑問を感じる。
 
2017年7月7日、国連会議で核兵器禁止条約が採択された。しかしこれを受けて日本は米英仏と共にこれに加盟しない方針を明らかにした。その理由として政府首脳は安全保障上の現実問題を無視した理想論には賛同できないとの趣旨を表明したが、世界で唯一の被爆国であり、これまで非核三原則を国是とし、核兵器廃絶案を散々国際社会に投げかけてきた国家の姿勢としてはいささか矛盾や疑問を禁じ得ない。昨今の不穏な北朝鮮情勢を踏まえての判断でもあるだろうが、決して国民、取り分け被爆者やその遺族に対して納得のいく回答を示しているとは言い難い。現実論に踏み切ったのはあくまで政治上、外交上の建前であって、本音の部分は、もし北朝鮮など核保有国から攻撃を受けた際に日本は物理的な報復手段を持たないのだから、日米安保条約に基づき、同盟国であるアメリカの報復攻撃を合法的な手段として成立させようという目論見にあると捉えている。つまりはアメリカの核の傘であることに整合性を持たせようという腹である。
政治上の駆け引きである現実論そのものを否定するわけではない。ただ核の拡散を抑止する動きの延長上に究極的な核の根絶はなし得ないだろうし、逆にこの星から核兵器が消滅し、人類の脅威が消えない以上は核拡散の連鎖を止めることは不可能だろう。
このパラドックスを解決する手段として考えると、核兵器禁止条約に署名しないという現実論のみに立脚した政府首脳の判断はとてもナンセンスなものに思える。平和問題を語るうえで肝要なのは感情論は欠いてはならないという点にある。平和を願う思いは誰しも同じ。ならば理屈や道理で考えるのではなく、魂の感覚でいいじゃないかと思う。それは二度と広島と長崎の惨劇を繰り返さないという誓いであり、未来永劫に続く全世界の平和を心から願う思いである。この切実な思いの他に何が核拡散の連鎖の抑止力になりうるのだろうか。
78年前、広島と長崎で起こった事実を過去の出来事として消化してはならない。僕は幼い頃、いつか自分の上に原爆が落ちてくるのではないかという漠然とした恐怖に脅えながら過ごしていた。そして、今なお世界中の全ての人々がその危険と脅威に晒されていることを忘れてはならない。

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