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コント師の右手と手品師

緊急事態宣言の日々が、長く続いている。残ったものと、残らなかったもの。流れてしまったイベントや、閉じてしまったライブハウス。そういうものに思いをめぐらせるとき、今日も息災であったことには安堵しつつも、エンターテインメントを愛し、それに救われて日々を過ごしている身としては、気持ちがきりきりとする一方だ。

塞いだ日々を晴らすべく、少し前のことにはなるが、感動したステージについて語りたい。

その日、私はとても楽しいコントを見た。忘れがたい経験だった。規模としては小さいライブということになるのだと思う。観客はさほど多くなく、配信も入っていない。ステージと客席との距離がとにかく近くに感じられる会場で、演者の表情までしっかりと見える。そこに贔屓の人が立つのなら、いつだって駆けつけたい。そんな思いが余韻としてずっと留まっていくような、強い印象を残す至高の一本。最高の体験をさせてもらった。

エンターテインメントの様々な会場に、配信のカメラが入るようになって久しい。されど行き着くところ、カメラは風景を切り取る道具だ。届けられるその映像は、全体のほんの一部分にすぎない。

生の舞台に接するとき、人は自分の目でどこを見るか選択することができる。自身の求めるものにリアルタイムで視線を送る――それを叶えられるのがどうしたって配信サービスが超えられない限界点で、無意識のうちにそのように舞台を見ているものだろうが、さらにその外の領域にこそ、ライブならではの体験があると私は考える。


何かが起きそうな舞台配置。ステージの上で、架空の世界がふわぁっと広がっていく。袖からの声に誘われ、目線が自然と動いていく感覚。一挙一動、目の前で起こる一つひとつが何かを形づくり、虚構の世界が動き出す。この人たちの書く台本は、笑っているときに得も言われぬ爽快感がある。それを多くの人と共有する心地よさ。笑っているのを演者に気取られていると気づいていつつも、目線を外せない感覚。抜け出せないし、抜け出さない。ハマる、というのだろうか。そうやって、作りこまれた台本の中に、コント師の手の中に落ちていく至福。


手品で用いられるテクニックに、ミスディレクションというものがあるらしい。観客の視線や意識をコントロールし、その隙をついて何かしらの秘密の動作を行う技法とのことだ。機会もすっかりなくなってしまったが、何かマジックを見ることがあれば、素直に驚くことに私は心を決めている。タネを見破ろうとするのは無粋なことだ。粗を探すことよりも、鮮やかに騙されてはっと息を飲むほうが百倍気持ちがいい。


ライトが舞台を照らし、その人の手が動く。私たちは目の前のエンターテイナーに意識をあずける。計算された言葉と動作。抗うことなく、存分に操られたらいい。普段行き交うことのない神経が、急ぎ足で両側からつながる――。頬が悲鳴をあげている。


あとがき

漫才とコントでいえば、どちらかといえば漫才が好きですが、そういう好みをゆうに超えていくような、圧倒的な体験でした。配信が入っていたら、間違いなく何回も見返しただろうなとも思うけど、それがないからこその価値でもある。何がおもしろかったのかとか、どこがツボだったのかとか、そういうごちゃごちゃした説明とか分析を断って、ただ何かに魅せられることの幸せだけが残る。束の間であったとしても、舞台の上から人の情動に作用する芸というのは、まごうことなきプロの仕事だなと感じました。


さて、私事になりますが、最近仕事の環境が少し変わりました。新しいところで不慣れなことばかり。ここに適応できるかどうかは、自分との闘いかなと思っています。崩れることなく、どうにか耐えたい。意識して、積極的に気分を変えること。楽しい時間をちゃんとつくること。しんどい気持ちだけに引っ張られないように、自身で舵取りをしていくのが令和の働き方だろうなあと思っています。

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