複素幾何学の研究を始めるにあたって

複素幾何学を専攻するには、多くの予備知識が必要とされると思われている。実際に、複素幾何学が関わる数学の分野は多い。幾何学、解析学、代数学、広汎な数学と関わっている。だからといって、それらをすべて修めてから、複素幾何学の研究を始めると言っても、おそらく一生、複素幾何学の研究は始められないであろう。では、複素幾何学の研究者は、どのようにして研究を始めるのであろうか。今回は、複素幾何学のテキストの紹介と、その活用の仕方などについて、筆者の独断と偏見であるが、述べてみよう。つまり筆者がどのようにして、複素幾何学の研究を始めたのかを述べる。

筆者は複素幾何学が専門であるが、その原点は、小林昭七の「複素幾何」である。このテキストは、微分幾何学の視点から複素幾何に切り込んでいるという特徴がある。筆者はこのテキストを独学で読んだのであるが、一般的に言って、このテキストは独学で読むのにはあまり適していない。つまり全部書いてあるようなテキストではなくて、行間が広く、誤植だらけなので、独学で精読するのは、いささか骨であり、挫折する人も多いかもしれない。以前、このブログで筆者の勉強スタイルを述べたが、筆者は証明をほとんど読まないので、このざっくり複素幾何学を俯瞰する小林先生の複素幾何は、とにかく楽しく読むことができた。セミナーなどで、精読する場合、このテキストの調和積分論まで読むことができれば、複素微分幾何学の切り口から研究を開始することができるであろう。これが、複素幾何学の研究を開始するための一つの突破口である。

では、この突破口からどういった研究ができるのであろうか。コンパクト複素多様体というのは、そこにどういった計量が入るのか考えることにより、コンパクト複素多様体の複素構造を論じることができる。計量とは、もちろんエルミート計量のことであるが、エルミート計量は、考えているコンパクト複素多様体の複素構造により、ある種の$${(1,1)}$$微分形式と同一視することができる。この微分形式が閉じているとき、考えているコンパクト複素多様体のトポロジーと計量の間には、大きなつながりができる。これがいわゆるケーラー幾何の研究につながり、複素微分幾何の始まりであると言える。

複素微分幾何の素養を持つだけで、研究課題には事欠かないのであるが、より広く複素幾何学を考えようと思うと、代数幾何学に馴染むのもよい。代数幾何学では、部分多様体を考えるのが基本であるが、一般のコンパクト複素多様体においても、部分多様体、あるいは、部分解析集合を考えることには大きな意義がある。部分解析集合は、ザリスキー的ではあるが、考えているコンパクト複素多様体の骨格に関わることもあり、その解析手法の開発は、複素幾何学の中心的な課題であると言えるであろう。その研究が、射影代数多様体の研究につながることも、あるいはあるのかもしれない。一例を挙げれば、多変数複素解析における大沢-竹腰の拡張定理が、代数幾何学で懸案となっている、藤田予想につながるかもしれないという驚くべき研究もある。藤田予想とは、ざっくり言うと、ampleな正則線束は、何回テンソル積をとれば、very ampleになるのかという予想であり、代数幾何学の根幹にかかわる予想である。それにたいして、解析学を用いた証明ができれば、驚異的であると思われる。ただ、解析学といっても、解析集合を考えているので、思想的には、代数幾何学に源流があるのだと考えることができる。したがって、複素幾何学の研究では、代数幾何学に素養を持つことにより、より視野が広がると筆者は考えている。

テキストの話に戻る。

よく複素幾何学の勉強には、グリフィスハリスが勧められるが、筆者は所有しているが、ほぼ読んだことはない。かなり分厚いテキストで、読破することは困難であろう。ただ、小林複素幾何には書いてない内容である、複素曲面の理論について、章が割かれている。したがって、あるいは、人によっては、適したテキストかもしれない。ブローアップや、双有理写像など、代数幾何的な概念についても詳述されており、上記したように、代数幾何的な思想で複素幾何学を眺めるには、良いテキストかもしれない。そういう意味では、小林複素幾何とは、視点が異なるテキストと言えるであろうか。

筆者の専門は複素幾何学において、非ケーラーと呼ばれる分野であるが、そういった分野を勉強しようと思うと、洋書しかない。あるいは、洋書でもほとんどない。一冊例を挙げるとすれば、Angellaの「Cohomological Aspects in Complex Non-Kaehler Geometry」であろうか。このテキストは、冪零多様体を詳述している。題名にコホモロジーと書かれているように、ドルボーコホモロジーだけではなく、Bott-Chernコホモロジーや、Aeplliコホモロジーの定義と性質に関しても述べられている。それらの関係性も詳述されており、冪零多様体の研究をする上では、かなり重宝するテキストである。筆者もかなりお世話になった。このテキストを読むと、すぐに非ケーラーの研究に入れるであろう。

ただ複素幾何学の研究では、非ケーラーの研究はかなり筋道から外れるようである。それもそのはずで、非ケーラーというのが、数学者が考えているだけのコンパクト複素多様体の中における病的な例でしかないのかどうか、いまもってわかってないようにも思える。射影代数多様体の生成に関しては、クリアにイメージができるが、非ケーラー多様体の例を挙げよと言われても、各論的な話しかできないようである。ツイスター空間や、冪零多様体、可解多様体、その他、あるにはあるが、どれも、それぞれ母体が異なる。未だ茫漠としている世界であり、そこに何かがあれば、開拓する意義はあるが、何もなければ、マイナーな分野を研究している人になってしまうのであろう。よく分からないのが現状である。

一方でコンパクトケーラー多様体はどうであろうか。コンパクトケーラー多様体の例として射影代数多様体があるが、射影的ではないコンパクトケーラー多様体ももちろん存在する。射影代数多様体と位相同型にはなり得ないコンパクトケーラー多様体の例も存在する。ただ、ケーラー計量として、ホッジ計量をもつと、考えているコンパクトケーラー多様体は射影代数多様体となることがわかるように、コンパクトケーラー多様体は射影代数多様体と、理論的にかなり近しい存在と考えてもよさそうである。

こういった領域を研究するには、射影代数多様体に位相同型にはなり得ないコンパクトケーラー多様体の例を発見したVoisinの「Hodge Theory and Complex Algebraic Geometry」を読むのが良いのだろうか。ホッジ理論を表に出しているので、このテキストの主題は、コンパクトケーラー多様体であり、ケーラー幾何の代数幾何学への応用を含んだ内容だと思う(筆者はあまり読んでないので、明確には書けないが、本書は名著として知られている)。

以上、複素幾何学の研究を始める上において、基礎となり得るテキストをいくつか紹介し、どういった研究につながるのか、ざっくりと述べた。いずれもすべて読破する必要はなく、複素幾何学の考え方にある程度慣れたら、論文を読むことに移行することを薦める。

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