17 ケーラーカレントと複素幾何学

予想17-1
$${X}$$をコンパクト複素多様体とする。$${\omega}$$をエルミート形式とする。閉じた$${(1,1)}$$形式$${\alpha}$$の定義するコホモロジー類$${\{\alpha\} \in H^{1,1}(X, \mathbb{R})}$$がネフ、つまり、任意の正数$${\epsilon > 0}$$に対して、$${X}$$上に滑らかな関数$${\rho_{\epsilon}}$$が存在し、$${\alpha + i \partial \bar{\partial} \rho_{\epsilon} \geq - \epsilon \omega}$$となり、かつ、$${\int_X \alpha^{n} > 0}$$なるとき、コホモロジー類$${\{\alpha\}}$$はケーラーカレントを含むであろう。

この予想17-1は、もし$${X}$$がクラスC、つまり、コンパクトケーラー多様体と双有理同値なら、正しいことが知られている。コンパクト複素多様体がクラスCであっても、ケーラー構造が入るとは限らないが、ケーラーカレントを持つことが知られている。カレントとは、標語的に言えば、特異性をもつ微分形式である。超関数という名を聞かれた読者も多いであろう。もっとも基本的なのは、ディラックのデルタ関数であるが、あの関数は、普通の関数ではなく、測度である。一点に測度を持つので、通常のルベーグ測度ではない。超関数は、関数の一般化であるが、それを微分形式にまで拡張したのが、カレントという概念である。微分形式と同様に、外微分などを定義することができるので、カレントの理論が幾何学に結びつくのは想像に難くないであろう。複素幾何学で重要なのは、いわゆる正のカレントであり、特に、正の$${(1,1)}$$カレントには、深い理論的な内容がある。予想17-1のケーラーカレントとは、閉じた$${(1,1)}$$カレントで、あるエルミート形式$${\omega}$$に対して、$${T > \epsilon \omega}$$となるような正数$${\epsilon}$$が存在するものを言う。ケーラーカレントとは、もちろん、ケーラー計量の一般化であり、クラスCのコンパクト複素多様体にケーラーカレントが存在することは、今ではよく理解されている。

今回の記事では、ケーラーカレントの存在するコンパクト複素多様体を考えたい。正閉$${(1,1)}$$カレントを考えることは、代数幾何学においては、divisorを考えることに近い。Divisorが正閉$${(1,1)}$$カレントであることは基本であるが、当然、divisorをもたないコンパクト複素多様体にも、正閉$${(1,1)}$$カレントの存在することがある。したがって、代数幾何学的な視点から、コンパクト複素多様体を研究する際には、このカレントを考えることが重要になる。

ケーラーカレントとは、正閉$${(1,1)}$$カレントよりもかなり強い条件を課されたカレントである。正閉$${(1,1)}$$カレントは、Demaillyの近似定理により、解析集合を特異集合とする閉$${(1,1)}$$カレントにより近似されるが、この事実により、ケーラーカレントは、解析集合を特異集合とするケーラーカレントにより近似することができる。これはかなり強い結果である。つまり、ケーラーカレントはザリスキー集合を除いて、滑らかなカレントを考えればいいということなのである。このザリスキー集合を深く考えることにより、コンパクトケーラーと非ケーラーの境目を論じることができるのである。これは、つまりザリスキー集合であるから、複素幾何学の研究に載ると考えていいであろう。

コンパクトケーラーと非ケーラーの境目を考えるうえでの指標を紹介しよう。

まず正閉$${(1,1)}$$カレント$${T}$$の特異性を研究する上で、最も基本的な、Lelong数$${\nu(T, x)}$$を定義する。

定義17-2
$${x \in X}$$とする。$${x}$$の近傍$${U}$$では、正閉$${(1,1)}$$カレント$${T}$$は局所的に多重劣調和関数$${\psi}$$を用いて、$${T_U = i \partial \bar{\partial} \psi}$$と書くことができる。このとき、Lelong数$${\nu(T, x)}$$を次のように定義する。

$$
\nu(T, x) = \liminf_{z \to x} \frac{\psi(z)}{\text{log}|z - x|}.
$$

Lelong数は、一般に閉じた$${(p,p)}$$カレントに対して定義できるが、ここでは、$${(1,1)}$$の場合の定義にとどめておく。このLelong数に対して、

$$
E_c = \{x \in X | \nu(T,x) \geq c \}   \text{where}    c > 0,
$$

なる$${E_c}$$をLelong sublebelsetとよぶ。多重劣調和関数は上半連続な関数であるが、Siuの結果により、Lelong sublebelsetはザリスキー集合となることが知られている。ちなみに、このSiuの結果は、Demaillyにより、大沢-竹腰の拡張定理を使うことにより、簡明な別証が得られたことに注意しておく。$${E_{+}(T) = \bigcup_{c > 0} E_{c}(T)}$$とおく。

定義に戻ろう。

定義17-3
$${(X, \omega)}$$を$${n}$$次元クラスC多様体とする。$${\omega}$$はエルミート形式とする。$${\{\alpha\} \in H^{1,1}(X, \mathbb{R})}$$をbig類、つまり、ケーラーカレントを含む類とする。

(1)次で定義される$${E_{nK}(\alpha)}$$を非ケーラー軌跡と呼ぶ。

$$
E_{nK}(\alpha) := \bigcap_{T \in [\alpha]} E_+(T).
$$

(2) 次の$${\text{Null}(\alpha)}$$をヌル軌跡と呼ぶ。

$$
\text{Null}(\alpha) := \bigcup_{\int_{V} \alpha^{dimV} = 0} V.
$$

ここで和集合は、$${X}$$におけるすべての解析的部分集合を走るとする。

(3) $${x \in X}$$の近傍で滑らかとなる解析集合を特異集合とするケーラーカレント$${T \in \{\alpha\}}$$が存在する$${x}$$の集合$${\text{Amp}(\alpha)}$$をample軌跡と呼ぶ。

定義は、筆者が英語を適当に日本語に読み替えただけの、ここだけの用語であることに注意されたい。軌跡と呼んだのは、定義における部分解析集合が、$${X}$$においてケーラー性の障害のなす軌跡のように思えるからである。つまり定義における指標で、コンパクトケーラーと非ケーラーの境目が測られるのである。

どうして軌跡と思えるのか。筆者の私見を述べよう。解析集合とは、でたらめに存在するのではなく、ある規則性をもってコンパクト複素多様体に存在すると考えるのが自然であると、筆者には思えるからである。代数幾何学では、しばしば、より次元の低い代数多様体への正則写像を考えることがある。その際、低い代数多様体上のファイバーは、代数構造を持つが、そういった代数構造をもつ部分多様体は当然正則写像により存在が制御される。一般のコンパクト複素多様体の場合も同様に、部分解析集合は、なんらかの規則性をもって存在すると想像される。こういった研究がどの程度あるのか、筆者は知らないが、定義17-3を考えた研究者には、そういった形で部分解析集合を見ているのかもしれない。筆者の私見である。

議論に戻ろう。

多様体がコンパクトな場合、ケーラーと非ケーラーの境目には、クラスCとう性質があるのを上記で見た。多様体がクラスCの場合、定義17-3で述べた、非ケーラーの指標の間には、次のような関係がある。

定理17-5
$${X}$$をクラスC多様体と仮定する。$${\{\alpha\} \in H^{1,1}(X, \mathbb{R})}$$をネフで、$${\int_{X} \alpha^n >0}$$を満たすコホモロジー類とする。その時、

$$
E_{+}(T) =  E_{nK}(\alpha)
$$

となるような、ザリスキー集合を特異集合とするケーラーカレント$${T}$$が存在する。特に、$${E_{nK}(\alpha)}$$は解析集合である。さらに

$$
E_{nK} (\alpha) = \text{Null} (\alpha).
$$

ちなみに、考えているコンパクト複素多様体がクラスCの場合、定理17-4の仮定となっているコホモロジー類は、普通に存在することに注意しよう。

定理17-4を使うと、先回に紹介したDemailly-Paunの結果の別証が簡単に得られる。

定理17-5
$${X}$$をコンパクトケーラー多様体とする。$${\mathcal{K}}$$を$${X}$$のケーラー錘とする。

$$
\mathcal{P} :=  \bigr\{ \{\alpha\} \in H^{1,1}(X, \mathbb{R}) \big| \int_{Y} \alpha^{\text{dim}Y} > 0,  \forall Y \subset X :部分解析集合,  \text{dim} Y > 0  \bigr\},
$$

と置く。この時、$${\mathcal{K}}$$は$${\mathcal{P}}$$の連結成分である。

定理17-4を使うと、定理17-5、これは大きな定理ではあるが、簡単に証明できるので述べてみよう。
$${\mathcal{K} \subset \mathcal{P}}$$は明らかである。さらに$${\mathcal{K}}$$が連結かつ開であることも明らかである。$${\{\alpha\} \in \bar{\mathcal{K}} \cap \mathcal{P}}$$と仮定する。その時、$${\{\alpha\}}$$はネフかつ$${\int_{X}\alpha^n > 0}$$であるが、さらに、$${\{\alpha\} \in \mathcal{P}}$$なので、$${\text{Null}(\alpha) = \emptyset}$$である。定理17-4により、$${E_{nK}(\alpha) = \emptyset}$$であるので、再び定理17-4により、$${E_{+}(T) = \emptyset}$$となるようなザリスキー集合を特異集合とするケーラーカレントが存在するのであるが、これは実は滑らかなケーラー計量である。したがって、$${\{\alpha\} \in \mathcal{K}}$$。したがって、定理17-5が得られる。

次の定理も強調すべきである。

定理17-6
$${X}$$をクラスC多様体と仮定する。$${\{\alpha\} \in H^{1,1}(X, \mathbb{R})}$$をネフで、$${\int_{X} \alpha^n >0}$$を満たすコホモロジー類とする。その時、$${E_{nK}(\alpha) = \text{Amp}(\alpha)^c}$$である。

定理17-4により、代数幾何学においてはよく知られた次の定理を証明することができる。

定理17-7
$${X}$$を射影代数多様体とする。$${\{\alpha\}}$$をbig類、かつ、ネフ$${\mathbb{R}}$$因子$${D}$$とする。その時、$${E_{nK}(\alpha) = \mathbb{B}_{+}(\alpha)}$$。ここで$${\mathbb{B}_{+}(\alpha)}$$は、因子$${D}$$により定まる、base locusである。

定理17-7の解析版が定理17-4と考えることができる。このように、射影代数多様体における定理を、クラスCのコンパクト複素多様体にまで一般化できるというのは、驚くべきことである。このことからも、クラスCなるコンパクト複素多様体を研究する意義があると、筆者は考えている。

複素多様体がコンパクトな場合、正なカレント、特にケーラーカレントが存在すると、考えている複素多様体が、ある意味、射影性をもつことをみた。代数的な手法を超えて、超越的な手法を使うことにより、射影代数多様体における定理を、クラスCにまで一般化することができたのである。当然、これはケーラーカレントが存在するおかげなのであるが、では、クラスCの外にある、茫漠たる非ケーラーの世界はどうなっているのであろうか。予想17-1の仮定を満たすコンパクト複素多様体はクラスCであると信じられているが、もし、否定的な解決が得られた場合、クラスCの外側にある非ケーラーの世界に日が差すのかもしれない。


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