15 コンパクト複素多様体の位相構造について
筆者の専門は複素幾何学で、特に非ケーラーと呼ばれるコンパクト複素多様体が研究対象である。非ケーラーを専門に選んだことには特に理由はない。単にマイナーな領域に挑戦したかったのと、非ケーラーの世界は、いまだに未知の世界であるという文言に惹かれたので、非ケーラーの世界に足を踏み入れた。ただ非ケーラー多様体というのは、コンパクト複素多様体であるが、あまり理論的な縛りを受けず、ある意味、射影代数多様体の一群からはみ出たコンパクト複素多様体の例外的な例のようにも思える。$${\mathbb{C}^n}$$には豊富にアフィン代数多様体が存在し、それのcanonicalなコンパクト化が射影代数多様体とするならば、前回述べたように、一般のコンパクト複素多様体は、射影代数多様体のなり損ねのようにも思える。ただ、次の事実をみて、読者はどう思うだろうか。
定理15-1
コンパクト複素多様体$${X}$$がMoishezon多様体であることと、その上に、ドラムコホモロジー$${\{T\} \in H_{DR}^{2}(X,\mathbb{R})}$$が整となるようなケーラーカレントが存在することは同値である。
ケーラーカレントの定義は、過去記事を参照してもらいたい。ケーラー計量、つまりケーラー形式は、滑らかな微分形式であるが、ケーラーカレントは、特異性を許したケーラー計量と見ることができる。カレントとは、超関数係数の微分形式と思ってもらってよい。一般にカレントは非常に複雑な特異性を持つが、ケーラーカレントに関しては、Demaillyの近似定理により、解析集合を特異点集合とするケーラーカレントにより近似することができる。カレントとは言っても、ほぼ滑らかなカレントと仮定することができるのである。Moishezon多様体は射影代数多様体と双有理同値なコンパクト複素多様体であり、非射影的になったりすることもある。非射影的なMoishezon多様体にはケーラー計量は入らない。非射影的なMoishezon多様体にはケーラー計量は入らないが、ケーラーカレントは入る。上記のケーラーカレントの説明により、(これは間違った見解かもしれないので注意)アフィン代数多様体を変な風にコンパクト化した多様体が、一般のMoishezon 多様体だと思うことができる。ケーラーカレントの入るコンパクト複素多様体は、一般にクラスCのコンパクト複素多様体と呼ばれ、こちらは、コンパクトケーラー多様体と双有理同値になることが知られている。したがって、定理15-1は、射影代数多様体を特徴づけた、ホッジ計量の、非ケーラーにおけるアナロジーなのである。ホッジ多様体が射影代数多様体になることは、有名な小平の埋め込み定理により言えることをご存じの読者も多いであろう。
クラスCのコンパクト複素多様体をご存じない読者も多いと思われる。例として、次の広中の例が知られている。
定理15-2
(ここでは構成法を書かないが)任意のコンパクトケーラー多様体に対して、それと双有理同値な非ケーラークラスC多様体が存在する。
定理15-2により、非ケーラークラスC多様体は、かなりたくさん存在する。非ケーラーMoishezon多様体はツイスター空間に重要な例が多く存在するが、非Moishezon非ケーラーのクラスC多様体の例は、定理15-2以外には知られていない。何か魅力的な例はないだろうか。一般に、コンパクト複素多様体は部分多様体を持つ方が、研究対象としては重要であるように思われる。ただ、ここで言う部分多様体とは、コンパクトな場合を考えている。非コンパクトな正則葉層構造などは、どんなコンパクト複素多様体にも、多く存在すると思われる。それらが、コンパクト複素多様体に定まる複素構造にどういった影響を与えているのかということは、まだ未開拓な研究領域のように思われる。
ちょっと話は戻るが、定理15-1の成立は偶然であろうか。上記したように、Moishezon多様体はアフィン代数多様体を変な風にコンパクト化したものであり、その変な部分というのは、解析集合として特徴づけることができる。逆に言えば、非ケーラーMoishezon多様体には、変な解析集合があるのである。次の予想がある。
予想15-3
非ケーラーなMoishezon多様体には、0にホモローガスな曲線が含まれるであろう。
予想15-3に関しては、複素三次元においても、証明されていない。ちなみに、広中の例は予想15-3に主張する曲線が存在する。ただ、広中の例は予想15-3にある曲線を含むように構成されたものだから、広中の例で予想15-3が成立することは当たり前かもしれない。予想15-4を次のように強めることはできるであろうか。
予想15-4
非ケーラークラスC多様体には、0にホモローガスな曲線が含まれるであろう。
クラスCのコンパクト複素多様体は、コンパクトケーラー多様体の一般化である。しかしコンパクトケーラー多様体と異なるのは、非ケーラークラスC多様体には、必ず部分多様体が含まれるということである。とりわけ変な部分多様体が含まれると考えられるので、予想15-4を挙げることができるのである。
ここから、コホモロジーの話をしよう。
コホモロジーとして有名なのは、ドラム複体から導かれるドラムコホモロジーであろう。多様体の位相不変量である、特異コホモロジーがドラムコホモロジーと同型になるというドラムの定理がある。ドラムコホモロジーは微分形式で書くことができるので、ポアンカレの双対定理など、多様体のトポロジーに関して、解析的に導き出すことが可能になるのである。
ドラムコホモロジーの正則版として、ドルボーコホモロジーというものがある。ドルボーコホモロジーにもドルボーの定理というのがあり、それがどういった感じで、ドラムの定理の正則版と見なせるのか、気になった読者は調べてもらいたい。
ドラムコホモロジーとドルボーコホモロジーにはどういった関係性があるのであろうか。ドラム複体やドルボー複体は、線形作用素$${d}$$と$${\partial}$$、$${\bar{\partial}}$$により定義される。さらに次の微分作用素をご存じの方は、実は少ないかもしれない。$${d^c = J^{-1} d J}$$。$${J}$$は複素構造である。これらの作用素は、二回作用されると$${0}$$になるので、コホモロジーが定義できる。また、これらの作用素に関しては、ラプラス作用素$${\Delta_d, \Delta_{\partial}, \Delta_{\bar{\partial}}, \Delta_{d^{c}}}$$を定義することができる。それぞれの作用素により、ラプラス作用素が定義でき、それぞれのコホモロジー群の元は、それぞれの調和形式により代表されることを導くことができる。これが調和積分論のもっとも基本的な定理である。
考えるコンパクト複素多様体をケーラーだと仮定すると、上記のラプラシアンには、$${\Delta_d = 2 \Delta_{\partial} = 2 \Delta_{\bar{\partial}} = \Delta_{d^{c}}}$$なる関係があり、ドラムコホモロジーとドルボーコホモロジーに関して、ホッジ分解とホッジ対称性の成り立つことを証明できることをご存じの読者も多いと思う。その式は過去ブログに書いてあるので、それを参考にするか、あるいは標準的な複素幾何のテキストを参考にしていただきたい。
ホッジ分解とホッジ対称性というのは、幾何学的にはどういったことを主張しているのであろうか。まずホッジ分解とホッジ対称性が成り立つ場合、奇数次のベッチ数は偶数にならなければならない。これは空間のトポロジーに強い縛りを与える。一般にコンパクト複素多様体の部分多様体というのは、正則な部分多様体を考えるが、正則ではなく、ただの位相部分多様体がどのように埋まっているのか、つまりサイクルの存在であるが、そういうことも、考えているコンパクト複素多様体の複素構造に関わってくると思われる。ホッジ分解というものは、そういうことなのであり、それにさらにホッジ対称性が加わり、考えているコンパクト複素多様体のトポロジーに強い縛りを与えるのである。上記では、コンパクト複素多様体に対してケーラー性を仮定することにより、ホッジ分解とホッジ対称性を主張したが、ホッジ分解やホッジ対称性には、次の$${d d^c \text{Lemma}}$$と呼ばれるものが本質的に内包されていることが知られている。
補題15-5
$${M}$$をコンパクトケーラー多様体と仮定する。もし微分形式$${x}$$が、
$$
(1) dx = 0 = d^{c}x,\\
(2) x = dy \text{or} x = d^{c} y’,
$$
を満たせば、ある適当な微分形式により、$${x = d d^{c} z}$$と書くことができる。
補題15-5ではケーラー性を仮定したが、実はこの補題が成り立つ非ケーラー多様体の存在も知られている。ツイスター空間以外でもっとも面白い幾何構造をもつと思われる例として、三次元球面の直積の連結和$${n\# (S^3 \times S^3)}$$であろうか。この多様体にはbalanced計量が入り、$${d d^c \text{Lemma}}$$も成り立つ。したがって、ホッジ分解とホッジ対称性も成り立つ。標準束も自明であり、非ケーラーカラビヤウ多様体として考察され、さらに、カラビヤウ多様体において成り立つ倉西族が滑らかであることも知られている。この多様体はカラビヤウ多様体に対する、リードファンタジーと呼ばれる壮大な予想に関係しているようである。興味のある読者は調べてもらいたい。
いずれも連結和の個数として$${n \geq 2}$$において成り立つ主張であることに注意されたい。$${n=1}$$の時は、三次元のカラビエックマン多様体の構造が入ることが知られているが、この複素構造にはbalanced計量も入らないし、もちろん$${d d^c \text{Lemma}}$$も成り立たない。標準束も自明ではない。$${n=1}$$の時に、標準束が自明となる複素構造が入るのかどうかは未解決問題として知られている。
$${d d^c \text{Lemma}}$$が成り立つ非ケーラー多様体の例を与えたが、$${d d^c \text{Lemma}}$$が成り立つとき、ホッジ分解とホッジ対称性が成り立つので、位相的な強い縛りがあり、非ケーラーに多く存在するということにはならないと思われる。つまり、つぎの予想がある。
予想15-6
$${d d^c \text{Lemma}}$$が成り立つコンパクト複素多様体はbalanced多様体であろう。
上記のクラスCのコンパクト複素多様体は、すべてbalanced多様体であり、また$${d d^c \text{Lemma}}$$を満たすことが知られている。クラスC多様体とコンパクトケーラー多様体は、双有理幾何的には同じものとみなされるが、実は、トポロジカルには、あまり似通っていない可能性があると筆者は思っている。実際、コンパクトケーラー多様体と位相同型になる非ケーラークラスCの例は一つ(これも広中の例と呼ばれる)しか、筆者は知らない。逆に、コンパクトケーラー多様体と位相同型になり得ない非ケーラークラスC多様体は多く知られていると思われる。またクラスCではないが、上記の3次元球面の直積の連結和も、二次のベッチ数が0になるので、どんなコンパクトケーラー多様体とも位相同型にはなり得ない。コホモロジカルな性質がコンパクトケーラー多様体と似ているからと言って、コンパクトケーラー多様体と近い存在であるとは言えないようである。少なくとも、トポロジカルにはコンパクトケーラー多様体には、$${d d^c \text{Lemma}}$$では言えない縛りがまだあるのであろう。上記で、非ケーラークラスC多様体には変な解析的な部分集合が存在すると書いた。ただなぜそれが解析集合となるのか筆者には分からない。クラスC多様体はコンパクトケーラー多様体の正則像なのだからと言ってしまえばそれまでなのだろうが、コンパクト複素多様体とトポロジーの関係には、まだ謎めいた内容が多いように思える。筆者も引き続き考えていきたいと思う。