「拡散」は結局「大きな物語」へ向かう――「数-知」論
「お、この記事いいな、いいね!しよ」「ワロタwwwRTwww」「やっぱ、XXXさんには共感です。鋭い」
日常的に起こりうる光景。こういう行為を見るたびに、資本主義的イデオロギーの蔓延と革命からの退却を感じざるを得ない。
なぜか。結局われわれは「記号・数値化された大きな物語」で世を埋め尽くそうとしているに過ぎないからである。
大きな物語とは、簡単に言えば、科学、哲学を基礎づける「知」。もちろん、リオタールが『ポストモダンの条件』でその終焉を告げているのだが、私からすれば、依然として「大きな」物語への志向は生きながらえているように思われる。むしろ、より生き生きとしてきているのではないだろうか?
ここで、先ほど「大きな物語とは[……]「知」」と述べた事を振り返るが、現在においては、意味が横滑りしている。現在、大きな物語とは「数値」、あるいは、「数-知」であるといえるだろう。
「数-知」が何を指すか、端的に言うと、われわれは結局「数の大きいものを「知」とみなす傾向にある」ということである。そのためSNS如きで拡散されるのは、数が多い、大きな声のみだけであるということである。要するに、ドゥルーズ的マイナー性はありえず、既得権の主張と現存するヒエラルキーの拡大にのみ機能するのである。
具体的に言えば、われわれは、拡散者(拡散を行うもの)となるとき「人や企業の名前」「拡散数」くらいしか見ていない。「そんなことないよ」と反対したい気持ちはわかる。しかし、少なくとも「内容」はどうでもいいに違いない。これは、間違いない。
根拠は、単純だ。拡散を行ったわれわれは、(1)それのみでアクションを止める(2)賛同を示すごく短い文章を寄せる 以上の2つの行動のみ許されるからだ。そこに議論はない。またテクストの客観的な運動はない。あるのは、「拡散」というごく機械的な成果がもたらす、数の暴力だけである。思想的な妥当性を求めることなく、単なる「数値上の肥大化」だけに貢献することで、あたかも何かに素晴らしく参加した気分になるのである。
数値が拡大すること自体が問題なのだろうか。そうではなく、数値が大きくなるほど、「数-知」であるように思われる。換言すると、数の大きさ=知の偉大さという図式ができあがるのである。それは統計的説得性である。同時に、統計から漏れた人々を灰にする暴力性でもある。
要するに、批判のないユートピア空間。インターネットユーザーはそれを欲しているし、インターネットで批評した気分になっている人は、自身が批判されることを想定できないノン・ポレミックなペルソナなのである。にもかかわらず、自身のファンのみの世界=独裁的ユートピア(ディストピア)の中のルールが、実際の世界で通用する「知」であると錯覚してしまう。これが「数-知」による誤謬である。実際、それは「知」とはなんら関わりのないものなのに。
しかし「数-知」が根付く風土のあるインターネット環境においては、数の暴力を反駁するのではなく、それとどのように付き合っていくかを考える方が賢明なのかもしれない。なにより、「数-知」的人間は、「それっぽいことをそれっぽくいい、なんとなく共感を得られるもの」を生産し、稼げればいいだけなのだから。それが、資本主義を全面的に肯定するということなのだろう。