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名代富士そば 丹道夫

首都圏の駅前を中心に多く点在する立ち食いそばの大手、名代富士そば。名代富士そばを運営する株式会社ダイタングループの創業者であり、現在も代表取締役を務めるのが丹道夫さんです。1935年12月15日、85歳を迎える丹道夫さん、紆余曲折を経てたどり着いた富士そばの成り立ち、社長としての役割などをまとめました。

丹道夫さんの会社「名代富士そば」

丹道夫さんの人生は紆余曲折という言葉では不十分なほど、壮絶な人生でした。弁当事業で成功するまで全くもってうまくいかない日々、年老いた母親と故郷から東京へやってきて、背水の陣でつかんだ足がかり。その後、不動産事業に手を出して成功、しかし、このまま豪遊する日々でいいのかと思った矢先、日本海の近くにある駅で、停車中の列車から降りた乗客がせわしなくそばを食べ、おばあさんがそれをせっせと提供する様子を見て、東京でこれをやれば成功すると確信、名代富士そばが誕生します。一躍有名にさせたのは、24時間営業でした。コンビニすらなかった時代、まして24時間営業という行動に周囲は大反対。深夜に誰が行くのかという話になりながらも、タクシーの運転手など物珍しさもあって繁盛し、結果的に爆発的なヒットを飛ばします。

丹道夫さんの社長としての役割

間違いなく丹道夫さんの社長としての羅針盤になったのが、失敗した時に学んだことでした。たとえ物珍しさがあっても、従業員を酷使させるほど働かせれば意味がないこと、同じ兄弟なのに、弟は甘やかされ、血がつながっていないからと厳しくされるのはなぜかと自問自答するなど、その時々の状況で学んだことを社長、会長になってアウトプットしています。自分がやってきたことを肯定する経営者があまりにも多く、他人にそれを押し付けることをしがちです。しかし、丹道夫さんは逆に、自分が犯した過ちや屈辱的な行為を、他の人に味合わせたくないと考え、その中で結果を出し続けており、珍しさがあります。

丹道夫さんに対する感想

不動産事業で大成功をおさめ、1960年代から70年代にかけて月収が500万円もあったという丹道夫さん。普通ならそれに満足するところ、むしろむず痒さを感じ、また新たな挑戦を志したのが丹道夫さんらしさがあります。苦労に苦労を重ね、ようやくつかんだ栄光はあまりにも輝かしいものですが、その栄光に全く驕ることがなく、現在に至るまで現場第一を掲げるのはさすがであり、マネできるものではありません。

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