オマージュ?ディス・オマージュ?
芸術などにおいてオマージュはよく聞く言葉。
素敵な響きだ。
今一度意味を調べると、ファッションプレスにこんな説明。
言葉の響きのみならず、フォロー感
、リスペクト感がいい。
ただ、実際はどこまでをどうなのだろう…
例えば完成形が10とすると、1とかそれ以下の割合で取り入れているもの、という私的感覚だが、実際のところはどうなのだろう。
音感からもぼんやりしたものなのかもしれない。
オマージャー(homager,オマージュする側)はオマージイイ(homagee)に事前にオマージュについて話すものなのだろうか?
言葉の意味からすれば、事前に話して良さそうなものだが、そうでない場合が多いのかもしれない。
なぜこの話かと言うと、とあるわたしの行為を取り入れたものが知らない間に突然存在したからだ。
オマージュ?と捉えれば良かったのかもしれないが、そうであればオマージイイ側にいくらかポジティブな感情が生まれても良さそうだが。
器が小さいだろうか?
他人の幾つものケースを見聞きしてきたがこのケースは…。
繊細だ。
事実だとしたら?
なぜ一声、なかったのだろう…
悲しすぎて胸が締めつけられる。
オマージャーはそんなことをして平気なのだろうか?
逆の立場ならどう思うのだろうか?
①想像できなかった
②自分たちさえ良ければこちら側はどうでもよかった
③あたりまえのことだった
のだろうか、そうだとすると悲しみと残念みの極み。
今からでも話してもらえれば少しは癒える気がする。だが、言い訳や誤魔化しはいらない。
何にも代え難いものであったから、ディス・オマージュ(造語?:リスペクトや声かけも一切なく自利のため取り入れ、win-winでなく、オマージャーの心を著しく傷つけるものであること)と呼んでいいだろうか。
こんな記事もある。
はじめて開くサイト、MARUKINADより。
シンガーソングライターやアーティスト、プロライターがこうやって素人が綴るものやプロのライターに関わらず、他者インスピレーションを得るのとはまた今回のは話が違いすぎるし、例えそうであったとしても、それは正直に語るべきだろう。
その方が無論潔いし、カッコいい、なにより人としてごくごく基本的な行為だとわたしは思う。
シンクロニティというのともまた今回のケースは違う。
人生最大級。
「他人の褌で相撲をとる」ような人は最近はわたしのまわりにはほとんどいなくなった気はしていたが…ディス・オマージュの類義語として挙げてもいいだろうか。
あれやこれやと考えたり、自分を責めたり、書いたり消したり、なかなかうまく明文化できなかったが、いろいろ落ち着いたら、信頼のおける人達には詳しく話してもみたいと思っている。
今後のためにも。
自己防衛も兼ねて。
『大J林』のように状況ごとにこうやって言葉を横断的に捉えて考えていくと、幾らか痛みが癒えたり、冷静になれたりし、救いになったりすることがある、新たな学びもある、ということが実践してみてよく分かった。
ただ、とても頭を使う。
ときどき『大J林』を見直したりしていつまでも柔らかい思考を心がけたい。
実は一部、この本のなかで趣向がわたしとちがうところはあったのは確かで、ささっと読みに留めておいたものもあるのだが、とにかく感謝!
尊敬の念を込めながら、また何かの出来事(遭遇機会が多いほうなので)思いついたらオマージュとして記したい。