連載 ひのたにの森から~救護の日々⑧ブラジル編
御代田太一(社会福祉法人グロー)
出稼ぎブラジル人のリアル
滋賀県に住むブラジル人は約9000人。県内の外国人の中で最も多い。
「出入国管理及び難民認定法」の改正(1990年)に伴って、3世までの海外日系人とその配偶者が「定住ビザ」を得られるようになり、日本での就労を行う移住者が激増した。その結果、バブル好景気の中で、働き手の足りない各地の生産現場はそうした外国人を頼った。この時代の工場生産や経済循環の地盤を外国人が支えていたともいえる。
中には職が途絶えたり高齢化して、生活保護を頼る人も少なくない。そして最近はひのたに園にも常に数名のブラジル人利用者が暮らしているような状態だ。
ブラジルから日本へは、片道24時間はかかる。
Google翻訳を片手に
ブラジル人利用者の中には日本語が話せる人もいるが、逆に全く話せない人もいる。山中 ミゲル ペレイラさん(仮)がその1人だった。担当もすることになったミゲルさんは、強烈に印象に残っている1人だ。
ミゲルさんは22年前に日本にやってきた。詳細は分からないが、出稼ぎ目的に、家族をブラジルに残してきていた。来日してからは製造現場などで働いてきたそうだが、食が途絶え、しばらく友人宅で過ごしていたが、退居してひのたに園に入所された。
日本語はほとんど話せない。職場も生活の場もブラジル人ばかりで、ポルトガル語ですべて済むから、日本語を覚える必要に迫られなかったようだ。あとで調べると、そういったブラジル人の集住地域が全国にはいくつかあることが分かった。
話せても「アリガト」とか「ワタシ、ゴハン、イラナイ」とか「ミヨダ、イマスカ?」くらい。担当と聞かされた時、施設長からは「御代田さんならポルトガル語もすぐ覚えられるんちゃうの?(笑)」と冗談で言われたから、「ボンジーア(こんにちは)」などの挨拶はネットで調べて覚えた。
でもそれでコミュニケーションが成立するはずもなく、日々のやり取りはスマホのGoogle翻訳を駆使して、なんとか成立させていた。
「何か困ったことはありませんか?」とスマホに打ち込んで、ポルトガル語に翻訳する。きちんと翻訳されているかは分からないが、それを読み上げ機能で伝える。なんとか伝わった。
「アー、ヨル、サムイネ」
「ブランケットを一枚持ってきます。」とまた翻訳で伝える。「コシ、イタイ」と言われれば、マットレスを買ってくる約束をする。そんな感じだ。
スマホの文字は小さくて読めないから、読み上げ機能を使っていた
日本語が話せるブラジル人利用者が来てからは、通訳をお願いすることもあったが、時々ミゲルさんとポルトガル語で話し込んでしまうこともあり、その度「今なんて話してたんですか?」と確認する必要があった。
通訳や翻訳を間に挟んだコミュニケーションしかできず、基本的な関係性が築けていないような感覚がずっと残ったが、1日1回は何でもいいから話をしようと心がけて過ごした。
シヤクショ、ドロボウ。
そんなミゲルさんは、糖尿病があって視力も低下していた。もう一度仕事に就くのは難しく、ブラジルに帰るのが目標だった。ただ生活保護費からは航空券の補助が出ず、毎月7500円の支給金を貯金に回すしか手はなかったが、ある日、ブラジルに住む息子さんから手紙が届いた。
「お父さん、元気にしている?皆、ブラジルでお父さんのことを待っているよ。お金を送るからそれでチケットを買って、ブラジルに帰ってきて。」(手紙の内容の要約)
25万円はすぐ送金された。「こんなことがあるんですね。いい家族だなぁ。」と福祉事務所もひのたに園の職員も歓喜に沸いた。市役所にいるポルトガル語通訳者が来園し、ミゲルさんに早速お伝えした。しかし、予想もしない反応が返ってきた。
―息子さんから手紙とお金が届きましたよ。25万円。これで帰りますね。
―25万円?そうか、じゃあすぐわたして。それを持ってここ(ひのたに園)を出ていくよ。
―でも、チケットのためのお金ですよね。パスポートの手続きや航空券の手配が整うまで、預っててもいいですか?
―いや、いますぐ私にちょうだい。あとは自分でやるから。
―でもミゲルさん、日本語も話せないのにどうやって手続するんですか。
―そんなのは俺の勝手だ。俺の金なんだから早く渡してくれ!
実際のやり取りはポルトガル語なので、これはあくまで後で聞いた話を元にしたやり取りのイメージだが、ミゲルさんはとにかくお金を渡すよう要求したようだ。それまでは落ち着いて過ごしていたが、25万円という大金を前に「こんな施設出て自由に暮らしてやる」と衝動が沸き上がったのかもしれない。
25万円は現金で預かっていた。
「自分で航空券を買う」と引き下がらないミゲルさんだったが、言う通りに渡す訳にもいかず、お金は市役所で預かることになった。ただミゲルさんは納得しておらず、事あるごとに「シヤクショ、ドーロボウ」と語気を強めて、僕に不満をこぼすようになった。僕もどうすることも出来ず、「手続きが進んでいるか聞いてみますね」とごまかすのが精いっぱいだった。
宿直明けの攻防
ある日、ミゲルさんは外出届に「サンポ」と書いて、職員に黙って自転車で市役所へ向かった。あとで市役所から連絡があって判明した。「お金を返してほしい」と何度職員に言っても動きがないから直訴しに行ったそうだ。市役所は車で20分はかかる。標識が読めないほど視力が悪いはずなのに、どうやって辿り着いたのか。入所時の資料には「自転車には乗れない」とあったのに。衝動にかられた人の底力は凄まじい。
市役所で説得されて帰ってきたミゲルさんだったが、やっぱり納得はしていなかった。そこに加えて、ちょうど新型コロナウイルスの感染が始まった。ブラジルでの感染拡大のニュースも届き、当面帰国は難しい状況になってしまった。先の見えない状況の中で、お金の事にはあまり触れないようにして過ごすようになった。
そんなある日、宿直勤務を終えた僕は、ミゲルさんに一言喋ってから帰ろうと、いつものようにサムエルさんに通訳をお願いして、談話室の片隅に座ってもらった。
その時何の用事でミゲルさんを呼んだのかはっきりと覚えていないが、話しているうちに話題がそれ、25万円の話になった。またその話か、と思いつつ、宿直明けで身体も疲れていたのでなんとか場を丸く収めようとした。しかしミゲルさんは段々と興奮してきた。
「シヤクショ、ドーロボウ」
「ベンゴシ、トモダチ、イル」
友達の弁護士に相談するということか、また無茶な話を。その「トモダチ」は、車で一時間程はかかる場所にいるそうだ。そこにポルトガル語の分かる弁護士がいるのだろうか。そんなことをボーっとした頭で考えていると、ミゲルさんは立ち上がって、黙って部屋の方に帰ってしまった。
「機嫌を悪くしちゃったな」と反省しつつ、次の出勤の時にまた話そうと気持ちを切り替え、宿直室で帰る準備をしていたら、ミゲルさんを呼び止める職員の声がした。
「ちょっとー、ミゲルさん、どこ行かはるの~?」
「ベンゴシ、トモダチ。シヤクショ、ドーロボウ」
慌てて駆けつけると、ミゲルさんは玄関を出たところで、自転車に乗ろうとしていた。部屋に戻ったのは、自転車のカギを取りに行くためだったのか。車で1時間かかる場所に、自転車で行くつもりか。
ミゲルさんを呼び止めた先輩職員と2人で必死に説得したが、ミゲルさんは頑なだった。
小太りのおじちゃんが手で押す自転車を、若い職員2人で必死に正面から止めようとする。なんとも滑稽な絵面だが、緊迫していた。しかし意思を固めた相手に説得は無駄で、ミゲルさんは自転車にまたがって、ピューっと坂を下りていってしまった。
門を出て100mほど坂を下ると公道に出る。
「ああ、行っちゃいましたね…」
「いやあれはしゃあないわ、止められへんわ…笑。どこへ行くつもりなんやろなぁ。」
「さっき友だちの弁護士がいる、って言ってたので、そこかもしれません…」
先輩職員と2人で慰めあって、記録だけ打って帰った。こんなことなら、話なんかせずにそのまま帰るんだった。余計なことをした、と自分を恨みながらアパートへ帰った。
3日後にまた出勤してみると、ミゲルさんは園にいた。3日前とは打って変わり、落ち着いた様子だった。公園で一泊してから友達のところへ辿り着いたそうだが、その友達がミゲルさんを説得し、市役所経由で園へと車で送ってくれた。
ミゲルさんは様々な持病もあり、毎日2回の職員付き添いの血圧測定や、白内障の治療を続けたが、目に見える症状の回復はなかった。受診先の病院では治療方針をめぐりミゲルさんとドクターが口論になって、「施設でちゃんと説明してから連れて来てください」と付き添った看護師がドクターに説教されることもあった。
先の見えない状況で、トラブルばかりが続いて、「支援している」とはとても感じられない日々だった。ミゲルさんと関わるたびに無力感が芽生えた。新型コロナウイルスの感染も収まらず、進展のないまま、ひのたに園を離れることになった。
福祉のクリエイティビティ
それから4か月、事態は突然動いた。ミゲルさんの帰国が決まったのだ。息子さんの連絡を受けたブラジル総領事館が間に入って動いてくれたことが大きなきっかけとなった。新型コロナウイルスの感染は完全には収束していなかったが、飛行機も一応飛んでいるそうだ。
その後はパスポートの更新、航空券の購入、出国日の段取りと、あれよあれよという間に帰国に向けた準備は進んだ。病院からの紹介状も、ブラジルで使えるように英訳して持ち帰ってもらった。
そして僕が離れて半年も経たないうちに帰国日を迎えた。ブラジルへは、伊丹空港からドバイ経由で向かう便だ。当日は久しぶりに挨拶に行き、「ブラジルで元気に暮らしてください」と一言伝えた。「アリガト、ヨカッタ」とミゲルさんは微笑んでいた。視力が悪くポルトガル語しか話せないミゲルさんが、ドバイの空港で無事に乗り継げるか一抹の不安を抱えつつ、送り出した。
伊丹空港までは市役所の方が送り届けてくれた。
その後、ブラジル総領事館から「無事に家族と合流し、息子宅でくつろいでいるようです」とメールがあった。無事についたようだ。先の見えなかったあの日々が嘘のようだ。トラブルがありながらも、いろんな支援が実を結び、23年ぶりの祖国への帰国と家族との暮らしが実現した。これまでの苦労も報われた気持ちだ。
その後、他のブラジル人利用者も、連絡が途絶えていた親戚とつながった人がいる。というのも、ブラジル総領事館のアドバイスのもと、親戚の名前をブラジル人が良く使うSNSで検索してみたら、あっという間にビデオ通話が実現したのだ。
今はそんな時代だ。人の暮らしをサポートするときには頭を柔らかくして臨まないといけない。「福祉の仕事はクリエイティブ」ということの意味が少し分かった気がした。
つづく
みよだ たいち
1994年神奈川県横浜市生まれ。東京大学教養学部卒。在学中、「障害者のリアルに迫る」ゼミの運営や、障害者支援の現場実習、高齢者の訪問介護などを体験する。卒業後、滋賀県の社会福祉法人グローに就職し、救護施設「ひのたに園」にて勤務。