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「ガラスのくに」の若者たち~こもれびの窓から②

遠い過去の中に見失った自分を探すかのように、ハンドベルを男性(27歳)はいじっていた。

「親不孝が今のぼくのいきがい……」
二つの大学へ入ったがいずれも半年で中退した。伸びきったつめが心の闇を物語る。

ハンドベルは一人ずつ音の異なるベルを鳴らしメロディーを奏でる。みんなの心が通ったとき美しい調べが部屋に響く。

大学で美術クラブに属していた女性(23歳)は、四年生になって就職が内定した途端、体に変調が現れた。胃に激痛が走り、外を見るのが怖くてカーテンを閉め切ったまま、暗い部屋で毎日を過ごした。

両親と妹の四人家族。平凡な中流家庭だった。会社員の父は家ではあまりしゃべらなかった。母は放任主義だった。勉強はできた。登校拒否の経験もない。だが、相談できる友達はいなかった。

「小四のとき、仮面をかぶったんです」と女性は言う。クラスで人気者の同級生がうらやましかった。ある日、彼女のものまねをしてみると、気持ちが楽になり、人付き合いがうまくできた。それ以来、本当の自分をかくしたまま生きてきた。

「いい子でいたかった。自分をさらけ出すと傷つきそうで怖かった」

就職の内定は辞退した。
「親の顔に泥をぬった」と父は非難した。内定先は父が勤めている会社だった。正面から向き合って長時間、他人と話すことがまだできない。


これは、1994年5月29日の毎日新聞に掲載された「ガラスのくに」という連載の1回目の記事である。

戦後50年を迎える日本社会の実相をさまざま角度から映し出そうというシリーズの若者編。バブルが崩壊して日本がどこへ向かおうとしているのか、誰しもが不安に思っていた時代だ。

きらびやかだが、もろくて傷つきやすい「ガラスのくに」。ひきこもりの若者や家族の声を拾っては文字にした。
メディアが「ひきこもり」を社会問題としてクローズアップした初めての記事だった。

この連載から28年が過ぎた。

何も変わっていないことに驚かされる。
記事に出てくる若者の言葉を読んでいると、いま私が大学で日常的に出会っている学生たちから話を聞いているような気がしてくる。

当時、ひきこもりの存在を社会に発信したのは、不登校の子どもや若者が通うフリースクールを運営していた人々だった。

少し前まで、不登校はあってはならないものとされていた。無理に子どもを学校へ通わせようとしたことが、ひきこもり、家庭内暴力、自殺などの逆作用をもたらし、子どもたちは逃げ場を求めるようにフリースクールへなだれ込んだ。

文部省(当時)は92年、不登校の児童・生徒がフリースクールなどへ通えば「出席扱い」とするよう全国へ通知を出した。フリースクールは社会的な存在価値を獲得し、情報の発信力を強めた。それが、ひきこもりを社会問題として世間に認知させることにつながった。

フリースクールの運営者たちは、学齢期を過ぎてからも不登校の延長のように社会に出ることができず、自宅内で過ごしている若者たちのことをニュースレターなどで紹介した。

中には自分の部屋にひきこもったまま家族とも断絶している人がおり、そうした人のこと、あるいはそうした現象のことを「引きこもり」と呼んでいた。

「おやじが死んでから自分の本当の人生が始まる」

真顔で語ったのは30代の男性だった。静かな人が多い中でよくしゃべる彼は目立った。ひきこもりというにしては表情も明るかったが、両手の爪が伸びて黒ずんでいた。

ロボットのようなぎくしゃくした歩き方をする若い男性がいた。両足に障害があるのかと思ったが、そうではない。狭い部屋の中で数年を過ごし、外出できるようになってから日が浅いという。歩くという行為を長い間していなかったため、筋肉や骨がうまく動かないのだと、フリースクールの職員は話していた。

ひきこもりの若者たちが参加する夏のキャンプに同行したことがある。若者たちとテントの中で一緒に寝た。仲間とキャンプに参加することができるところまで回復していた人たちではあったが、硬い表情を崩さない人がいたり、やたらとしゃべり続ける人もいた。それぞれ緊張していたのだろう。

「ふざけるな! このやろう」

未明のことである。若い男性の怒鳴り声で目が覚めた。悪い夢を見ていたのだろうか、眠っていた男性はうなされるように誰かに向かって怒りの声を何度も上げた。
 
連載「ガラスのくに」には全国から驚くほどたくさんの反響が来た。その多くが不登校やひきこもりの子どもを持つ家族からだった。子どもが家庭内で暴れ、家族も傷つき疲労困憊していることを切々と訴える文面が多かった。

今はメールやウェブへの書き込みが中心だが、当時は手紙とファクスだ。手書きの文字から、苦悩し揺れる心情が伝わってきた。寄せられた情報を頼りに新たな取材先へと足を運び、続編も掲載した。

いじめがきっかけで不登校になった生徒も多かった。
仲間内での遊びのように見えながら巧妙ないじめに苦しんでいた生徒がいた。

ある日先生と目が合った。
気づいてもらえた……。そう思った瞬間、先生が目を伏せた。残っていた望みの糸が切れたような気がして真っ暗になり、それを境に学校へ行けなくなったという。

山形県新庄市で起きた児玉有平さんのいじめ死(93年1月)、愛知県西尾市の大河内清輝さんのいじめ自殺(94年11月)の時期とも重なる。

いじめに傷つき、学校から逃避するようになった子どもたちは負のエネルギーを家族や自分自身に向けた。家庭内暴力、ひきこもり、自殺は90年代から目立つようになった。

私が出会った若者たちは、誰もが怒りや絶望を体の奥に潜ませていた。社会に対して向けないからわからないだけで、彼らの内側には雨風が吹き荒れていた。

夜中に「ふざけるな!」とうなされていた男性がそうだ。自分を傷つけ、追いつめている「何か」に向かって、夢の中で必死に反撃する。昼間の物静かな横顔からはうかがい知れない強い怒りが自分自身を焼き焦がしているような痛々しさだった。

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野澤さん 写真


のざわ かずひろ
毎日新聞新聞記者・論説委員として37年はたらく。現在は植草学園大学教授。ほかに東京大学の「障害者のリアルに迫る」ゼミの顧問(非常勤講師)を10年、上智大学文学部新聞学科の非常勤講師を8年続けている。社会福祉法人「千楽」を母体に今年5月「ちらく出版」を作った。「こもれび文庫」はちらく出版の初めての単行本。

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