【アノミー】生れてはいけないビジネスか、否か
「人の死をビジネスにする」。 私は強い嫌悪感を覚えます。しかし、これ以上の個人的な感想を述べるには、私たちは一歩引いて、この感情の根底にある要因を考え、理論的に分析する必要があるかもしれません。
死というのは伝統的に、個人やその周囲の人々、ひいては社会全体にとって神聖であり、尊重されるべき瞬間として捉えられてきました。それをビジネスの対象とする行為は、多くの人にとって道徳・倫理的に問題を感じさせるものであると、私個人としてはそう捉えています。
スイスは安楽死を合法化しているなど、死に対する独自の文化的・社会的アプローチを持っていますが、一方で死を商業化することへの批判も当然ながら存在します。上記の記事タイトルをご覧いただくだけでもおわかりの通り、やはり「逮捕」されているわけですから、安楽死が合法化されているからといって、人間の死をそう単純に扱って良いわけなどありません。
スイスでは、特定の医療条件を満たす患者が自らの意思で安楽死を選択することができる「自殺幇助」が合法であって、医療従事者が直接患者を死に至らせる「安楽死」は法律で禁止されています。つまり、スイスにおける合法的な自殺幇助は、患者自身が医師の処方した薬物を自らの手で服用することによって死を迎えるものであり、外部の介入は極力制限されているのです。
では、自殺幇助が合法化されているというのはどういうことか、少し具体的に見ていくと、まずスイスには「自殺幇助機関」という、民間組織として運営されている組織が活動しており、これらは個人が尊厳を持って自らの死を選ぶことを支援する、営利を目的としない民間団体です。
これらの団体は、特定の医療条件を満たし、合法的に自殺を希望する患者に対し、自殺幇助のプロセスを提供しています。こうした機関は、自殺幇助の合法性が認められている限られた国で活動しており、その多くがスイスに拠点を置いている、というわけです。
彼らが提供しているサービスは、「耐えがたい苦痛を伴う末期の病や治癒が見込めない慢性疾患を患っていること」や、「患者自身が判断能力を持っていること」など、厳格な審査を経たうえで、「患者に対して自殺に用いる薬物が処方され、患者が自らその薬物を服用する形で死に至る」というプロセスを経るといいます。
ここまでであれば、あくまでも「私個人的には」理解ができます。自分自身や大切な人らが「耐えがたい苦痛を伴う病に罹患し回復への道が見いだせない」、といった状況になってしまった場合、選択肢の一つとしてそれがあれば、選ぶか選ばないかということを超えて、「このような状況でも自分は選ぶことができる」ということそれ自体が、一つの救済に思えるからです。
私が問題として考えるのはここからなのですが、というのも自殺幇助機関は営利団体ではないとはいうものの、やはりサービス提供に伴う費用がかかる場合は当然ながらあります。中でも「ディグニタス」という団体は、外国人を対象とした自殺幇助を提供しており、その際の費用は高額になることがあるそうです。このため、自殺幇助機関が一部の人々から「死のツーリズム」として批判されることもあります。これは、「死を選択する権利」が、一部の裕福な人々に限られるという批判に繋がっているのだそう。
なるほど確かに。このような「耐えがたい苦痛」を終わらせるための自殺幇助サービスまでもが高額なのであれば、市政の人々の目には、それはさも「贖宥状」のように映るかもしれません。これはルターやカルヴァンがキレても仕方のない状況と言えるでしょう。
ルターやカルヴァンは贖宥状を販売したカトリック教会に対して抗議=プロテストをした派閥だからこそ「プロテスタント」と呼ばれるキリスト教派閥となったわですが、では「カトリック」と「プロテスタント」は「自死」についてどう教えるかと言えば、どちらも自死は「罪」としています。
イエス自身が自死について直接的に言及した記録は聖書には存在しませんが、これは、イエスが人々に対して「神はすべての命を尊重するべきだ」というメッセージを強く伝えているからでしょう。
例えば、マタイによる福音書では「イエスはスズメ一羽さえも神の目から漏れず、神がすべての命を大切にしている」という。イエスは、神の創造物である人間の命もまた同様に尊重されるべきと考えていたと解釈できます。
あるいは、ヨハネによる福音書では「世にあっては苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」と述べ、人々に困難に直面しても希望を失わずに信仰を持ち続けるように励ましています。
これに基づけば、イエスの教えは、苦しみや絶望の中でも命を捨てることなく、神に希望を見出すべきだという方向性を示していると考えられます。
しかし、プロテスタントの教えの中には「神の恩寵と救済」といったものがあり、この視点で考えれば「自殺者も神の慈悲によって救われる可能性があり、自殺は罪ではあるものの、それが救いを妨げるものではない」とする見解が増えているそうです。
こうしたプロテスタントの影響があってかどうかはさておき、現代のカトリック教会でも、自殺者の精神的・心理的状態や絶望感が、罪の重さを軽減すると考えるそうです。
私は信徒でもなければ、あまり詳しいわけではないので、「キリスト教の教え」についてはこのあたりとして、ここからは「死を選択する権利が、一部の裕福な人々に限られるという批判に繋がっている」という向きが、今後どのような危険を孕むか?という考察をしてみたいと思います。
「参入障壁」を下げても良いのか
さて、「参入障壁」などという概念を用いることで、「人の死をビジネスとして考えているのはお前自身だろう!」という厳しいご批判を受けそうですが、誤解を恐れずに反論をさせていただければ、中世カトリック教会が販売していた「贖宥状ビジネス」を思い出していただければわかりやすい。
中世のカトリック教会は、宗教的な絶対的権威を持ち、国家に対しても大きな影響力を及ぼしていました。贖宥状の販売において、教会は唯一の供給者であり、その救済に関する「市場」を完全に独占していました。他の組織や個人が同様の救済手段を提供することは事実上不可能であり、参入障壁は非常に高かった、いや、実質的に参入不可能でした。
贖宥状は、罪の罰を軽減あるいは免除するための文書であり、これは間違いなく「商品」です。信者らはこの商品を購入することで、現世や来世での罪の罰を軽減できると信じられていました。これは教会にとって重要な収入源となり、一部の人々からは商業的な行為として批判されました。
こうした教会の市場の独占的と贖宥状の販売は、教会内部や一般社会からの批判を招き、最終的には16世紀の宗教改革を引き起こす一因となりました。マルティン・ルターなどの宗教改革者は、贖宥状の販売を強く批判し、教会の権威と教義の見直しを求めました。
さて、私が冒頭に引用した記事で危惧した問題点を、以下に引用します。
これは明らかに「参入障壁を下げる行い」であると、私は考えます。
今回、提供された贖宥状に該当する商品とは、オーストラリアの医師であるフィリップ・ニチキによって設立された、スイスに拠点を置く「エグジット」という団体が提供する自殺ポッド「サルコ」という商品です。
彼らは、安楽死の権利を推進する国際的な非営利組織であり、サルコは、3Dプリント技術を用いた安楽死補助装置で、使用者が自らの意思で尊厳死を選択できるよう設計されています。この装置はスイスの法律に準拠しており、安楽死が合法とされる同国での使用が計画されています。
さて、「この装置はスイスの法律に準拠しており、安楽死が合法とされる同国での使用が計画されている」という一文をお読みになられて、皆さんはいかがお考えになられるでしょうか?
ここで私の懸念をはっきりと述べさせていただければ、
計画通りに行くわけなんてあるか!
です。
思い出してもみてください。絶対的な権威と権力を有していた中世カトリック教会でさえ、「贖宥状ビジネス=人の死に関わるビジネス」に対して、「参入させない」という抑圧を敷いたにもかかわらず、「宗教改革」という血で血を洗う歴史的惨事を引き起こしてしまいました。
障壁が下がれば、どうのような惨事が待ち受けているというのでしょうか?死を選択する手段が容易に入手可能になることで、社会全体の生命に対する価値観や倫理観が揺らぐ可能性があるかもしれません。
参入障壁が低いということは、適切な審査や支援を受けずに死を選んでしまう人が増えるリスクも生まれます。法律や倫理的ガイドラインが追いつかず、不適切な利用や悪用が生じる可能性も出てくるでしょう。
前述の通り、中世の贖宥状ビジネスは、教会がその権威を利用して信者から金銭を集める手段となり、信仰の本質を歪めるものとして批判され、その結果として宗教改革という大きな社会変動が起こり、多くの争いと混乱を招いたことを考えれば、現代において死を選択する手段が商業化・商品化されることは、倫理的な反発を引き起こし、社会的な大問題になる可能性があります。技術の進歩によって「死の手段」が容易に手に入るようになると、その影響は計り知れないものとなり得るのです。
はてさて、これは荒唐無稽な話なのでしょうか?
消費者のリテラシーが著しく低い可能性は無視できないでしょう。昨今のオーバードーズの流行は、その最も顕著な例と言えるはずです。医薬会社はこのような過剰摂取による売り上げなど望んで商売はしていないはずです。にもかかわらず教養に欠ける人々は、一時の快楽に走るためにこうした愚行に及ぶ。どのような事情があるかなんて、ここでは問題に上がりません。
こうした無知に付け込む企業が、この市場に目を向け狙い撃ちにする場合、待ち受けているのは果たして、イエスがヨハネにのみ伝えた「終末」となり得るのでしょうか?
イエスはなぜ、ヨハネにのみ終末の掲示を教えたのでしょうか?終末の掲示は非常に複雑です。単純に受け取るものではなく、深い洞察を持って解釈すべきものであるため、イエスは最も信頼できる弟子弟子のうちの一人、「愛された弟子ヨハネ」にそれを託したのかもしれません。
では、どうしてヨハネは、それを「黙示録」として伝え広めたのでしょうか?「黙示録」は、終末を通じて人々が反省し、内省するよう促すための重要なメッセージだと考えられます。終末のビジョンは「破滅」そのものの予告だけではなく、そこに至るまでの社会の堕落や腐敗に対しての警鐘でもあります。ヨハネは、この啓示を記録することで、後世の人々に対してその警告を伝え、希望を見失わないように導こうとしたのではないでしょうか。
アノミー
「複数の会社に同時に勤める」「短期の間に会社を移る」「そもそも会社に所属せず、個人として様々なプロジェクトに関わる」。こういった働き方が、さもクールなことのようにポジティブに語られる昨今ですが、このような働き方がスタンダードになった社会、いわば「ポスト働き方改革」が成立した後の社会には、いったいどのような懸念があるのでしょうか?
私自身としては、この懸念がもたらす最大のリスクは「社会のアノミー化」であると考えています。アノミーとは、元々フランスの社会学者エミール・デュルケームが提唱した概念です。通常は無規範、無規則と訳されることが多いのですが、それはむしろアノミーがもたらす結果であって 、オリジナルの文脈を尊重すれば、むしろ「無連帯」と訳すべきでしょう。
デュルケームは『社会分業論』と『自殺論』という主張二冊において、アノミーについて言及しています。
まず『社会分業論』では「分業が過度に進展する近代社会では、機能を統合する相互作用の営みが欠如し、共通の規範が育たない」と指摘しています。この指摘は私たちにはとても共感できるものではないでしょうか。
現代のフリーランスやプロジェクトベースの働き方は、個々の自由や柔軟性を尊重し、従来の企業の枠組みに縛られないスタイルとして高い評価を受けています。しかし、この新しい働き方には、見過ごされがちな倫理的リスクが潜んでいます。それは、一体何か?
そのリスクとは、働き手が特定のプロジェクトに関わる際、その仕事の全体像や最終的な影響を十分に理解しないまま、「部分的なタスク」を単にこなすことに終始してしまい、自分の仕事が社会全体にどのような影響を与えるかという「倫理的な責任感」が希薄になるという点です。
報酬の為に、クライアントのために、社会のためにと思って、誠実な思いで一生懸命に取り組んだ成果物が、組み上げてみると大量虐殺兵器だった、なんてことになったら笑えません。少々大げさでしょうか?そうでもないかもしれません。
例えば、ナチス・ドイツ下でアドルフ・アイヒマンが「ただ命令に従っただけだ」と弁明したように、働き手が全体像を見ずに単なる「歯車」として機能することが、倫理的にどれほどのリスクを内包しているかを想像するのは難しくありません。アイヒマンは命令に従い、ユダヤ人の大量虐殺において物流や運搬を「効率的」に行ったに過ぎないと言いますが、その「部分的な役割」が果たした結果は、想像を絶する悲劇を引き起こしました。
自動車産業の不祥事も、例えば排出ガス試験データ操作事件では、各エンジニアが自身の専門分野に集中するあまり、全体の倫理的な問題が見落とされました。このような分業が進んだ社会では、規範を共有することができず、社会全体の統合は失われやすい。誰も好き好んで不正や改竄をするわけではないでしょうが、目先の業務や利益に囚われていては、共通の規範が成立するとは考えにくい。
では、デュルケームがこの問題に対して提示する解決策は何でしょうか?彼が強調したのは、社会全体で共通の価値観や規範を共有する「ノルマティビティ=規範性」の重要性でした。働き手が社会全体で共通の目的意識や倫理を持ち、分業が進んでも全体像を意識し続けることが求められる、というわけですが、これはどうも難しいのではないか?と思うのですよね。
これは私の主観と言うよりも、デュルケームの後の世代であるポストモダニズムの思想家たちが、情報技術の発展、グローバリゼーションがもたらした価値観や文化の多元化を分析し、その結果、従来の統一的な規範が相対化され、社会の一元的な統合が難しくなったと主張しているからです。
では、どうすれば良いのか?・・・というのは、本記事の最後にお示しします。が、まあ、そうは言っても、これではあまりに「いけず」な態度だと思うので、少しばかり見方を変えつつ頭出しをしておけば、その一つとして「やりたかった職業に就く」ということは挙げられると思います。
日本で「就職」というと、ある企業に入社するという概念でほぼ用いられていますが、本来就職というのは「職に就く」わけであって、「社に就く」わけではありません。ですから、「会社という枠」から「職業という枠」へのコミュニティの転換を図るということを考えてみると良いと思います。
どの職業でも良いと思うのですが、仮に本記事冒頭で取り上げた自殺幇助という職業に関心を持つとしましょう。これは、人間が必ず迎える「死」という避けられない現実に対して、真剣に向き合おうとする姿勢であり、その意義は非常に大きいと言えます。自殺幇助に関わる職業に就きたいと考えることは、死に直面する人々を支援し、その苦しみを軽減したいという思いからでしょう。そうした職業が社会にもたらす価値は非常に高いものです。
しかし一方で、前出の「エグジット」という団体が利益を上げているから自分もそこで働いて稼ぎたい、というような、純粋に商業的な動機でこの分野に参入しようとする考え方は、アノミーを助長する可能性があります。3Dプリントで安価に生成した「サルコ」を量産し、利益を追求することは、死を商業化し、人々の命を軽視する行為と言えるでしょう。自殺幇助を必要とする人々を積極的に募るような社会は、本当に望ましいのでしょうか?
アノミー的自殺
「仕事が辛い」という理由で命を絶ってほしくない。自分と他人を比べる必要なんてない——これが私が皆さんに最も伝えたいメッセージです。
多様性が尊重されるこの時代に、私の価値観を押し付けるつもりはありません。しかし、学業や仕事が辛くて自死してしまうのは、あまりにも悲しいことです。自死を選ぶくらいなら、逃げたっていい。旅に出たっていい。人間はいずれ必ず死を迎えるのですから、せめてその瞬間まで生を全うしてほしいと思います。
ですから筆がなかなか進まなかったのですが、今朝「自殺ポッド、サルコ」の記事を目にした瞬間、「これは危険だ」と直感しました。OECDの中で最も勉強しないという称号を手にしている日本、そしてアノミー化が進んでいるように見える日本が、このようなビジネスに手を染めては、社会がさらに混乱してしまうのではないかと懸念しました。
私は年に数回、警察庁の「自殺の状況」を意識して確認しています。この統計を過去に遡って見ると、いくつかの気になる事実が浮かび上がってきます。
平成10年(1998年)から平成20年(2008年)にかけて、日本では自殺者数が年間3万人を超える高水準が続きました。1990年代のバブル経済崩壊やアジア金融危機の影響で、日本経済は深刻な不況に陥り、企業の倒産やリストラが相次ぎました。失業者や経済的困窮者が増加し、中高年の男性を中心に、職を失うことで生活基盤が崩れ、自殺に至るケースが増えたのです。
大手証券会社である山一證券が自主廃業を発表し、約7,000人の社員が職を失ったのは1997年のことでした。このニュースは当時の日本経済に大きな衝撃を与え、終身雇用神話が崩れ始めた象徴的な事件として記憶されています。
1998年に自殺者数が初めて年間3万人を超えたのは、経済的な理由による自殺が大幅に増加し、社会問題として深刻化したためです。これを機に、警察庁は自殺統計を詳細に公開し始めました。
また、厚生労働省の「人口動態統計」によると、日本の離婚件数は1990年代後半から増加し、2002年には過去最多の約29万件を記録しています。当時の社会がアノミー状態にあったことを示す一例と言えるでしょう。
もう一つ、世界各国・業界の統計データなどを提供するデータプラットフォームStatista の「日本の自殺率 2014年~2023年」を見てみると、2014年~2023年の日本の自殺率(人口10万人当たりの自殺者数)が、コロナ禍を契機として増加傾向にあるのです。
警察庁の統計によれば、令和5年の自殺者総数は21,837人。その内訳は、無職者が11,466人と最も多く、次いで有職者が8,858人、学生・生徒が1,019人、不詳が494人となっています。
無職者の中では、年金受給者が4,405人、ひきこもりではない無職者が2,545人、主婦が1,040人と続きます。有職者では、管理的職業従事者が2,006人と最も多いです。学生・生徒では、大学生が419人、高校生が347人、中学生が153人、小学生が13人となっています。
これらのデータから、年齢や社会的責任が高まるにつれ、アノミーがもたらす影響も増大していると考えられます。年齢や責任の増加に伴い、社会的役割や期待が変化し、それに適応することが困難になる場合があるからです。しかし、これは一概には言えず、個々の状況によって異なります。
ここで、デュルケームの主著『自殺論』に立ち返ってみましょう。彼は自殺を三つのタイプに分類し、「アノミー的自殺が増加する」と予言しました。
利他的自殺/集団本位的自殺:集団の価値体系に絶対的な服従を強いられる社会、または個人が自発的に価値体系や規範に積極的に服従する社会で見られる自殺。
利己的自殺/自己本位的自殺:過度の孤独感や焦燥感により、個人と集団の結びつきが弱まることで起こる自殺。個人主義の拡大に伴って増加してきたとされています。
アノミー的自殺:社会の規範が緩み、多くの自由が獲得された結果、膨れ上がる欲望を果てしなく追求し続け、それが実現できないことに絶望し、虚無感を抱くことで起きる自殺。
要するにデュルケームは、「社会の規制や規則が緩んでも、個人は必ずしも自由にならず、かえって不安定な状況に陥る。規制や規則が緩むことは、必ずしも社会にとって良いことではない」と指摘しているのです。
フランスの哲学者であるジャン=フランソワ・リオタールは、その著書『ポストモダンの条件』で、近代を支えてきた普遍的な「大きな物語」が信頼を失い、人々はもはや共通の物語によって統合されないと述べました。
日本では戦後、天皇を中心とした国体という大きな物語を創出しますが、昭和30年代までは村落共同体が、その後は左翼活動と会社がアノミーの防波堤として機能しました。疑似的な規範を形成して、個人間の渋滞を形成することで、一定規模の集団社会の凝集性を維持したわけです。
ところが、ここ20年ほどで、その凝集性は少しずつ弱まってきています。 社会主義国の相次ぐ破綻で、共産主義がイデオロギーとしてもはや大きな物語を支えられなくなり、また同様に、良い大学に入って良い会社に入って一生懸命働けば、一生幸せに暮らせるという物語も崩壊してしまった以上、会社にアノミー防止の役割を期待するのももはや難しい。
また日本では、90年代以降、自殺率が高い水準で推移しているというのは既に指摘しましたが、これもまさにデュルケームが指摘したことです。カルト教団への若者の傾斜も、90年代以降顕著になった現象ですが、これもアノミー化の進行に対する若年層の無意識的な反射と考えることもできます。
このような状況下で、デュルケームが提唱した「ノルマティビティ=規範性」を社会全体で共有し、アノミー化を防ぐことは、やはり容易ではないと思えてなりません。個々人が多様な価値観を持ち、多様なコミュニティに属する現代社会では、単一の規範による統合は現実的ではありません。
さてでは、会社の解体、家族の解体が進んだいま、社会のアノミー化を防ぐには、何が鍵になるのでしょうか。鍵は三つあるように思います。
社会のアノミー化を防ぐ鍵
ソーシャルメディアの活用
正直に申し上げると、私自身は基本的にSNSが大嫌いです。つい先日、アノミーの代表格と私が目する「X(Twitter)」の使用をやめたほどです。嫌い過ぎて色んなところで言ってるのですが、それでも全てのSNSが嫌いというわけではありません。だからこそ、ここ note での執筆を続けています。これは私が好きで楽しくてたまらないから続けられるのです。
SNSはアノミー化を防ぐ一つの手段となり得ます。オンライン上で共通の関心を持つ人々とつながることで、新しいコミュニティが形成されます。さらに、SNSにはセレンディピティ——思いがけない発見や出会い——も存在します。偶然のきっかけから新たな人々とつながり、予期せぬ情報や価値観に触れることで、自分自身の視野が広がることもあります。
これは、ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリが『千のプラトー』で提唱した「リゾーム」モデル、すなわち中心や階層を持たない水平的なネットワーク社会の実現につながります。SNSを通じて、多様な人々とのつながりや新たな発見が、アノミー化を防ぐ役割を果たすのではないでしょうか。家族や友人とのつながりの再確認
二つ目に、家族や友人とのつながりを再確認することも大切です。現代の不確実性の中で、身近な人々との関係性が心の支えとなります。リチャード・ローティは『偶然性・アイロニー・連帯』で、客観的な真理や普遍的な価値観が存在しない中で、共感や会話を通じて連帯を築くことの重要性を述べました。彼は、絶対的な真理がない世界でも、人々は対話を通じて互いの理解を深め、連帯を形成できると主張しています。
家族は選べませんが、友人は選べます。しかし、選べないからと言って家族の負の影響や「呪い」に縛られる必要はありません。むしろ、自分にとってポジティブな影響を与える友人関係を築くことで、アノミー化の影響を緩和することが可能です。家族との関係においても、対話や理解を通じて健全な関係を築く努力をすることで、精神的な支えを得ることができます。縦型コミュニティから横型コミュニティへの移行
三つ目が、会社という縦型コミュニティに代替される横型コミュニティです。これを歴史的な言葉で言えば「ギルドの復活」ということになります。ギルドは、中世ヨーロッパにおいて職人や商人が組織した組合であり、同業者同士が技術や情報を共有し、互いの利益を守る役割を果たしていました。
社会人類学者の中根千枝が『縦型社会の構造』で示した通り、戦後から平成にかけての日本では、会社という縦型構造のコミュニティが多くの人にとって最も重要なコミュニティでした。しかし先述した通り、会社の寿命は短命化が顕著であり、経済情勢の要請からそのコミュニティによって排除される人が多数出てくることが予見されます。この縦型構造社会が今後も継続するとは考えにくいのです。
SNSも家族も職業別のギルドも、それを作り上げる、あるいは自らが主体的に参加してメンテナンスするという意思がなければ成立しえません。
では、どうすればそのようなセレンディピティに巡り合えるのか?キーポイントとなるのは、フランスの社会学者 ピエール・ブルデューの著書『ディスタンクシオン』にあると思います。
ブルデューは、「テイスティ (趣味)」 が、社会的な区別に重要な役割を果たすと主張しました。彼は、人々の趣味は、彼らの文化的資本や経済的資本を反映しており、社会階層を明らかにすると考えました。
例えば、ある人はクラシック音楽を好み、別の者はポップミュージックを好みます。ブルデューは、このような音楽の好みが、人々の社会的な背景や教育レベルを反映しており、社会的な区別を生み出すと主張しました。
書籍『ディスタンクシオン』は、社会階層の形成や維持に関する重要な洞察を提供してくれている、という点を捉えて考えてみれば、テイスティはこの社会のアノミー化を防ぐための一つの手段ともなり得ます。テイスティを通じて人々が共通の関心や価値観を持つコミュニティを形成することで、アノミーの影響を緩和することができるかもしれません。
アノミー的自殺の増加は、現代社会が直面する深刻な問題です。しかし、SNSの活用、家族や友人とのつながりの再確認、そして縦型から横型コミュニティへの移行といった鍵を押さえることで、社会のアノミー化を防ぐことが可能です。デュルケームやリオタール、ブルデューといった哲学者や社会学者の理論を参考にしながら、私たちは多様な価値観を尊重しつつ、共感と連帯を築く新たな社会の在り方を模索する時代に来ているのではないでしょうか。
それでも最後に一度だけ強調したい。「誰もが自分なりのペースで生きていい」ということを。仕事が辛いという理由で命を絶つ必要はない。逃げることや立ち止まることも、人生の大切な選択肢の一つです。自分自身の価値を見つめ直し、心の声に耳を傾けることが、未来への第一歩となります。
僕の武器になった哲学/コミュリーマン
ステップ3.真因分析:そもそも、この問題はなぜ起こっているのか、問題の奥に潜む真因を突き止める
キーコンセプト36「アノミー」