【共同代表・川西諭と呉哲煥による原点回帰対談1】コミュニティキャピタル研究の歩み①
こんにちは!コミュニティキャピタル研究会の川西です!
前回は「コミュニティキャピタル研究会の自己紹介」という記事を書きました。
前回の記事に関連して、今回は、「コミュニティキャピタル研究会の発足の背景」にあたる「共同代表の川西諭(上智大学)と呉哲煥(NPO法人CRファクトリー代表)の問題意識」について書いていきます。
上記のテーマについて、2022年6月18日に公開されたFacebook Liveにおける私(川西)と呉の対談の前半の様子を書き起こした内容をシェアすることで、さらに深くコミュニティキャピタル研究会のことを知っていただけたらと思います。
今回は、コミュニティキャピタル研究会発足のきっかけ・動機についてお話ししていきます〜!
※Facebook Liveの様子はこちらからご覧いただけます。
1.それぞれの問題意識を出発点とした出会い
1-1 共通したもやもやに引き寄せられるようにしてはじまったコミュニティキャピタル研究
呉:2013年に上智大学の研究者の皆様とNPO法人CRファクトリー代表の私との共同研究がスタートしまして、今日は、その共同研究を始めようと思ったきっかけ、動機、これを語っていきたいと思っております。
まずは、私と川西先生の出会いから語っていきたいと思います。私たちの出会いは、2012年ぐらいに私がNPO法人ETICのセミナーをしていた時に、川西先生がなんと参加者として来ていたんですよね。多分2、30人ぐらい参加者がいたセミナーだったと思うんですが、講師である私の目の前に座っている人が、すごくにこやかに、何度も頷きながら、私の話を聞いてくれていたのをいまだに覚えているんですが、それでセミナーが終わった後に名刺交換させてもらったら、「上智大学の川西です」って、大学の先生だったっていうのが最初の出会いかと思います。
当時、川西先生は、どういう関心でセミナー出ていたんでしょうか。また、そこで感じたこととかあれば教えてもらっていいですか。
川西:僕があのETICのセミナーに出たのは、色々な社会課題について、すごく深刻な問題だっていう認識で、どういう解決策があるのか、色々なことを学んできた中で、あるときから社会起業家、ソーシャル・アントレプレナーの海外での活動が日本にも必要だと思うようになって、それで ソーシャル・アントレプレナー、あるいは社会起業家のような活動を日本でしている人たちって、どういう人たちなのかなって、すごく興味を持って、ネットで調べたら、ETICさんがまず出てきたんですね。
呉:うーん、なるほど。
川西: 調べるとETICさんのいろんなイベントがあって、最初に参加したのは、チェンジメーカーなんとかっていうイベントで、社会を変えていく人たちの集まりみたいなものがあって、2つぐらい出たんです。そこで出会った人たちとは、今もお付き合いがあったりして、ちょうど東日本大震災の後で、今から思い返すと僕もそういうところがあったんですが、そこに集まっていた人たちも何か自分たちで何かをしなくちゃっていう、そういう気運が高かった時なのかなって、今から振り返ると思うんですよね。
なので、学者としてソーシャル・アントレプレナーシップにすごく興味があったのが呉さんのイベントに参加した1つの理由なんですけど、もう1つあって、そういう社会を変える活動を自分でも実践したいと自分自身思っていて、実際2012年に僕はいくつかのプロジェクトを始めています。上智大学で、今も続いているんですけど、上智大学フューチャーセンタープロジェクトというのを立ち上げたのが2012年です。また、すごく小さい活動ですけど、自分の住んでいるところで、ガーデニングサークルという地域の人たちの集まりを作ったり、その他にもシェアハウスを作ったりとか。自分なりにできるところから、なんかやってこうってプロジェクトを3つぐらい2012年に始めているんです。それでどういうプロジェクト運営をしたいのかっていうことを考えた時に、その時はまだコミュニティの研究もしてなかったので、はっきりとしたビジョンはなかったんですが、自分たちの問題を自分たちで解決する、仲間が協力して問題を解決できるようなプロジェクトにしたいという思いがあって、それで呉さんのイベントのコミュニティマネジメント的なことも興味があって、セミナーに出させてもらいました。
最初はノウハウ的なこと中心に話がどんどん進んでくのかなって思っていたら、まず社会課題の話から呉さんが話をされたんですね。年間の自殺者数が3万人を超えてる状態とか、今は2万人ぐらいまでになってきてるんですけど、当時は3万人超えてる状態がずっと続いていて、またメンタルな問題を抱えてる人たちがすごく増えているとか・・・
呉:孤独死とかもありましたよね。
川西: はい、孤独死とかいろんな問題があって、やっぱり日本社会ってすごく問題だよなって改めて感じていて、すごく頷いていたのは、そうだよなって、自分の中にあるいろんな情報がそのとき結びついたような感覚があって、それで、すごく頷いていたんだと思います。
呉: なるほどね。研究を始めたきっかけ、動機って言うと、私はやっぱり2001年に、会社員を辞めて独立起業をして、2005年に法人化して、川西先生と出会ったのが2012年なので、ちょうど起業してから10年ぐらいのタイミングだったんですね。
そのときの自分はまだ何者でもなくて、自虐的にいうと弱っちい、ただの頑張っている人だった私でしたが、とはいえNPO法人CRファクトリーが5年目、6年目に入ってきて、いい現場とか価値も作っているっていう部分もあったんですけど、やっぱりコミュニティとか繋がりとか、いい現場とか、価値を作れば作るほどに何かもどかしさというか、「活望感」が生まれていて、そのもどかしさや「活望感」は何かっていうと、体感として価値は提供できているけれども、やっぱり具体的にもっと客観的に、そこに触れてない人にも目に見えるような形の、価値の可視化みたいなものに対する「活望感」、モヤモヤみたいな。これは多分私だけが持っている問題ではなくて、多くのNPOとか市民活動とか、例えば、コミュニティカフェとか、そういう居場所とかを作ってる人たちとかはその自分たちの作っている価値を信じているし、ここで人生が変わったりとか、若者が大きく変化したりとか、子育てをしている親が大きく人生を回復させたりする場面とかに出会えたりする。死ぬことを思いとどまるような場面にも出会ったりすると、その価値は目の前にいるとわかるんだけど、この経済優位的な現代社会において、その場とか、コミュニティとか、居場所とか繋がりの価値がなかなか伝わらない、可視化されないみたいなところがあって、何か研究というか、アカデミアというか、学術的なもので、 しっかりとこの価値を、自分が証明したいってのもあったんですけど、NPO、市民活動でこの「場」を作ってる人たちが証明できるようになっていくことが大事だなって、すごく思ってたんですよね。
そこで、川西先生と出会って、もしかしたら当時私がぐいぐいと川西先生に「何かできないですか」ってアプローチしたと思うんですけど、その1年後ぐらいのタイミングで上智大学の研究助成が1つのきっかけになって、研究会が立ち上がったっていうのが私の記憶ですね。
川西先生が先ほどのフューチャーセッションとか、ガーデニングサークルとか、みかんハウスとかをやられるってことも含めて、 川西先生の問題意識、コミュニティキャピタル研究を始めようと思った問題意識ってどの辺にあるんですかね。
1-2 川西の問題意識の背景
川西: そうですね。僕は1999年に大学教員という研究者になって、そのときは11年か12年経ってたんですが、僕の研究の流れから言うと、スタートはスタンダードなマクロ経済学研究からスタートしているんです。マクロ経済学研究するようになったきっかけ、本当に経済学に興味を持つようになったきっかけは、高校生の時に知った過労死の問題ですね。
この問題が当時の自分にはすごく不思議というか、おかしいっていう感覚があって、ちょうどバブルの頃だったんです。僕が大学入試目指して勉強したの1989年ですけど、その頃ってバブルが弾ける前夜の状態で、父は会社の営業マンで、土日も接待ゴルフやったりして、ずっと本当に忙しく、夜も接待とかで仕事していました。実は仕事もうまくいっていたと思うので、生き生きてしてたと思うんですが、ニュースで入ってくる情報では、日本はこんなに物質的に経済的に豊かになってるのに、過労で死んでしまう、仕事をしすぎて死んでしまうって事実に驚きました。何のために働いてんだって感覚があったり、あとその当時家庭をかえりみない親の家庭が崩壊していたり、学校も荒れていたり・・・
呉: そうですよね。
川西:それって、家庭の教育が行き届かないところで子供たちの不満が爆発していたということも多分あったと思うし、「経済的にすごく豊かなのに、なんでこんなに社会が荒れているんだとか、すさんでいるんだ」みたいな問題意識があった。環境問題のこととかもありましたし、当時僕は全然信じていなかったけれど、ノストラダムスの大予言とかも…
呉: あー、ありましたね、終末感みたいなのもありましたよ。
川西:私にも終末感みたいなものがちょっとあったりして、今の若い皆さんも多分すごく将来に対して不安があると思うんですけど、当時の僕もこのままでいいのかなとか、このまま普通に会社員になっていいのかな、みたいな思いがずっとあって、それで諸悪の根源じゃないですけど、問題のコア(中心)は経済なのかなと思ったので、経済学を志すようになったんですけど、いざ大学の経済学部に入ると、その年の1990年に株式市場のバブルが崩壊して、そして2年、3年と経っていく少しずつ経済の歯車が狂い始めました。でも私が卒業するときはまだ就職活動は悪くない状況で・・・
呉:そうですよね。
川西: 私の先輩たちとかは就職活動で企業に接待されて・・・
呉:1週間海外旅行とか…
川西: 今では考えられない
呉: ということもありますよね。
川西:バブルってそういう時代だったんですけど、でも、足元では景気が悪くなっていくような、そういうことは実感していて、そういうことを研究するのがまず一歩かなって、マクロ経済学をやり始めて、実際就職する1999年までは、比較的スタンダードなマクロ経済学を研究してたんですけども、やっぱりすごく病的な人間の側面みたいなものが気になっていました。みんな幸せになるために働いたり、生活したりしてるはずなのに、過労死みたいなことが起こっちゃったり、家庭が崩壊しちゃったりして、それこそいじめを苦にして自殺してしまうということが出てきてしまう。
何か大事なものが見落とされているんじゃないのかなっていう感覚はずっとあったんですよね。何が見落とされているのか、私たちにとって本当に大事なものは何なのかっていうことを、ちゃんと伝えていかなくちゃいけないし、今ある目の前の課題をどういうふうに解決したらいいのかを考えて、研究していた。その時に1つの鍵になるものとして注目したのが社会起業家…
呉: なるほどね。
川西:呉さんが社会課題の話をした後に、それを解決する仕組みとして「公助」と「共助」と「自助」っていう3つの仕組みがあるって呉さんが言って、おそらく1番古い歴史的なところから考えると、自分の問題は自分で考える「自助」っていうのが多分まずあって、次に自分の問題を自分だけで解決するよりも、みんなで協力した方がいいよっていうことで、おそらくどんな社会の中にも「共助」って仕組みがある。
そこ(共助の仕組み)ではやっぱり自分たちの問題は、自分たちで解決する。そういう感覚がどこの社会にも多分あったと思うんですけど、 それがそれこそ、戦後の日本経済、日本社会の中で「公助」がすごく強くなってしまって・・・
呉: そうですよね。
川西:それで、それこそ家の前に何か置いてあったら市役所に電話するとか、自分で片付けりゃいいじゃんみたいなのを…
呉:公園で何かあると、ものによりますけど、それは自分で声をかけるというよりかは、やっぱり市役所が警察に電話するっていう、そういうアプローチにやっぱなりますよね。
川西:そういう問題があった時に、それを解決するのは自分でもなく、自分たちでもなく、行政だっていうような空気が今の日本社会では感じられるけれど、 経済を学んでいる人間からすると、今、日本の財政はそれどころじゃないんですよね。だから、いずれこの公助の仕組みは多分うまくいかなくなるし、うまくいっているようでいても、もうすでに公助が原因でいろんな問題が起こっている。
心の悩みを抱えている人たちだとか、 あるいは今解決されないで放置されている色々な問題はたぶん公助では解決できないからこそ放置されている。だから、 解決されずに放置されてる問題に、僕たちはいつまども頭を悩ませて続けているわけで…
呉: そうですね。
川西:結局、本質的に大事なのは、公助の次の共助、真ん中の共助のところ。自分で助ける自助の部分は、最低限のことをたぶん誰でもやっていると思う。何もしないで困るのは自分だから。
だけど、みんなで協力して、自分たちの問題を解決するっていう共助が、今すごく弱くなっているんだろうなっていう認識があったんですよね。そして、どうしてそれがうまくできないんだろうっていう問いが、僕の中にリサーチクエスチョンとしてあったんですよね。
呉: なるほど。
川西:「自分でやってみないとわかんないな」っていうのもあったんですよ。学者って客観的に物事を見ようっていう、それは姿勢としては、大事なスタンスではある。客観性はすごく大事だとは思うんですけど、自分でやったこともないのに、わかんない部分って絶対あるよなって思って、3つのことを始めました。
上智大学フューチャーセンタープロジェクトっていうのは、上智大学の中のいろんな課題について、まずは興味関心のある人たちが集まって話しましょうという対話の場を作るプロジェクトなんですけど、そこでの対話によって関心を持ってる人たちのコミュニティを作って、その人たちが自分たちで自分たちの問題を解決するっていうムーブメントを起こしたいっていうのが上智大学フューチャーセンタープロジェクトの本当に目指してるところなんです。これは今も全然変わっていなくて。
ガーデニングサークルも基本的には、自分たちの地域の課題は自分たちで解決しようっていう風に考えています。公園とかって市役所の人に綺麗にしてくれと頼めばやってもらえるんですけど。最低限のことしかやってくれないじゃないですか。それでガーデニングサークルで、1番最初に掲げた目標は、 自分たちの街の真ん中にある小さい公園を日本一綺麗な公園にしようっていうのが1番最初の自分たちのミッションなんですよね。そういうことを掲げることで公園での活動が始まり、少しずつ公園から周りの緑地や、それぞれの家のお庭とかに広がって、高齢で手入れができなくなったお宅のお庭を綺麗にしてあげるとか、育てたお花を皆さんに配って、家の前に飾ってもらうことで、街が少しずつ華やかになっていく・・・みたいなことをやってるんですけど、目指してるのは公園を綺麗にするだとか、街を綺麗にするだけじゃなくて、そういう街のことを大事に思う人たちのコミュニティを作ることで、街の中で起こったいろんな問題を自分たちで解決できるコミュニティを作ることが実は本当の目標なんですよ。
なので、そういうふうに自分たちのことを自分たちで解決するっていうことを自分が中心になって始めたちょうどその時期に呉さんと会っているんで、(呉さんから共同研究のアプローチをされてから)1年ぐらいの間は、僕は結構もう2つのプロジェクトと、みかんハウスっていうシェアハウスの立ち上げもあって、もう本当に過労死寸前(笑)
呉:ミイラ取りがミイラになるみたいな
川西:本当にあの時は、今思い出してもすごい忙しい日をずっと過ごしていたなって感じ。ちょっとそれが落ち着いた頃に、共同研究を進めようって話になって・・・
・・・と今回はここまでです。
Facebook Liveで今回話したことを読み返して、改めて初心を振り返ることって大事だなぁと感じています。
コミュニティキャピタル研究会の活動が始まって、慌ただしく10年近い時間が経過しましたが、活動しているときは「自分が何のために活動しているのか」みたいなことを忘れてしまって、少しモチベーションが下がってしまったこともありましたし、進むべき方向性が見えなくなってしまったこともありました。
これからも、ときどき、たちどまって初心をふり返ります。
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