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回顧録第2話【ヤングガンガン】

【鋼の錬金術師】

声をかけてくれたのは、後にヤングガンガンの編集長になる中野崇氏だった。びっくりするほどのイケメンで、社内で異彩を放っていた少年ガンガンの編集者だ。当時、少年ガンガン編集部はとても活気があった。エニックスのお家騒動後、空洞化したガンガンで連載をスタートした荒川弘氏の『鋼の錬金術師』が大人気作と化していたからだ。

『鋼の錬金術師』は1話を読んだ瞬間、僕は衝撃に震えた。そして激しい嫉妬を覚えた。あんな王道作品が作れるなんて。ジャンプでもアンケート1位を取れそうな本物の少年漫画だ。悔しかった。当時のガンガン編集部は、お家騒動で作家の入れ替えが起きた結果、連載ラインナップがガラリと変わった。『鋼の錬金術師』以外にも、大久保篤氏の『ソウルイーター』や、『ナルト』の岸本斉史氏の双子の弟・聖史氏が作った『サタン』など、ジャンプに載りそうな王道少年漫画が始まっていた。

僕が一番作りたいジャンルだった。僕は漫画オタクではあったが、いわゆる世間がイメージするオタクではなかった。当時は『あずまんが大王』や『ラブひな』などの影響で、美少女がたくさん出てくる、“萌え系”と呼ばれる作品がトレンドだった。ガンガンWINGのようなマイナー誌には、そういう作品が求められた。だが、当時の僕はそんな作品が作れなかった。腐って漫画作りを諦めて、社内で雑用や作りたくもないゲームアンソロジーの仕事を黙々とするしかなかった。そんな僕にはガンガン編集部の活気ある姿は目に毒だった。

編集者たちがイキイキと仕事をし、売上が伸びていく。アニメ化や映画化の声が次々と聞こえる。「やめてくれ、そんな姿見せないでくれ、そんな声聞かせないでくれ。」ひたすら自分が惨めに思えた。そんな時にガンガンにいた中野さんの「新しい雑誌作らないか?」という声は神の声だった。しかもイケメンだから実際に神に見えた。話を聞くと、どうやら中野さんは部長に新雑誌『ヤングガンガン』の企画書を通したらしい。「ヤングガンガン! 良いじゃないの!」当時の僕は25歳。ヤング誌はストライクだ。ヤングマガジンやヤングジャンプ、そしてヤングサンデーの愛読者だった。

すぐさま異動を希望した。そしてすぐに受理された。既にガンガンWINGの編集長との関係は完全に悪化していたし、オリジナル作品はすべて打ち切られていた。何の未練もなかった。それどころか僕は漫画編集者をやめるつもりだったから、常に不貞腐れて、常に編集長に反抗的な態度をとっていたのだから。


【ハリウッドリライティングバイブル】

会議室で新雑誌創刊会議が始まった。最初のメンバーは5人。皆、30代中盤で僕一人だけ20代だった。10歳近く年上の大人の編集者に囲まれた僕は気分が高揚していた。「今度は絶対に結果を出してやろう」、そう心に誓った。

ヤングガンガンを本格創刊する前に、いつの間にかスクウェアと合体してスクウェア・エニックスと化していた会社から1年間の準備期間が与えられた。その間に4冊の増刊を出すことになっていた。その雑誌の名は『ガンガンYG』。ヤングガンガンを名乗らなかったのは、あくまで実験雑誌でヤングガンガンの名前は温存したいとか、そんな理由だったと思う。

1年間の準備期間は僕にとってパラダイスだった。毎日のように中野編集長に連れられて夜の街を飲み歩いた。新創刊メンバーと夢の雑誌について語り合った。だが、楽しいだけではすまない。1年後には戦いが始まる。僕は念入りに準備を始めた。

まずは増刊で結果を出さねばならない。必要なのは作家と自身のスキルアップだ。僕は書店に駆け込み、あらゆる脚本の本を買い漁った。僕が担当してきたのは新人作家だ。新人作家は総じて構成が苦手だ。自分が描きたいものを上手く規定のページ数に落とし込めないのだ。そして僕も構成が理解できていなかった。起承転結の意味がわからない。

日本の脚本や小説の教科書も役に立たなかった。どれも漫画には落とし込めなかった。が、そんな時に出会った一冊の本がそれを変えた。その『ハリウッドリライティングバイブル(愛育社刊)』は僕にとって衝撃的だった。ハリウッドで使われる脚本学をまとめたそれは三幕構成を分かりやすく解説し、読者の感情を思い通りに動かす手法を明かしていた。

僕はよく出来ている漫画の1話を三幕構成で分解してみた。なるほど、よく出来ている漫画は例外なく構成が完璧だったのだ。僕は構成力をすぐに身につけた。これで構成が苦手な作家をサポートできる。


【ヤングガンガン創刊メンバー】

僕は作家を探していた。ガンガンWINGからは中村光氏だけ連れ出した。彼女の作風はヤング誌ならバッチリマッチすると思ったからだ。だが一人じゃ足りない。ガンガンWING時代に削られてしまった自己肯定感を回復させるためには圧倒的な結果を出さねばならない。

アンケート1位から5位くらいまで僕一人の担当作で独占しようと、強者揃いの先輩編集者の中でいきり立っていた。ネットを巡回し、良さそうな作家さんを探した。『WORKING!』の高津カリノ氏や『マンホール』の筒井哲也氏は執筆を快諾してくれた。さらに当時、大好きだった小説家、原田宗典氏の『平成トムソーヤ』をコミカライズするために、後に『お前はまだグンマを知らない。』をヒットさせる井田ヒロト氏に声をかけた。

だが、まだ足りない。そんな時に、当時のスクエニマンガ大賞で大賞を取った作家がいた。大高忍、当時19歳だった彼女は全編集部から満場一致で大賞に押された。すごい作品だった。とにかく荒いがエネルギーに満ち溢れている。頭の中に『鋼の錬金術師』がよぎった。彼女となら、あれに並ぶ作品が作れるかもしれない。僕は担当になりたいと中野さんにせがんだ。最初は断られたが、しつこく頼み込んだ。最後に中野さんが折れた。僕は大高忍の担当になった。


【すもももももも〜地上最強のヨメ〜】

大高忍と打ち合わせを重ねた。彼女は間違いなく本格的な少年漫画を書ける才能がある。本人も描きたがっていた。だが、まだ早いと思った。才能があるとはいえ19歳の新人だ。本格的な王道作品を作るには画力が足りないと思った。それにそもそもヤングガンガンはまだこれからの媒体。どんなものが主流になるか分からない。それに大賞作家の初連載、絶対に失敗するわけにはいかない。

僕が彼女のデビュー作に選んだジャンルは、僕が毛嫌いしていた美少女ラブコメだった。何が何でも勝たねばならないのだ。『鋼の錬金術師』のようなトレンドを作る作品を目指すのはリスクが高い。トレンドを作るのは力をつけてから。僕はトレンドに乗ることにした。だが、乗るのはあくまでもジャンルだけ、漫画の構成は少年漫画を意識した。あとからじわじわ人気が出るタイプではなく、1話目で1位を取るような作品を作ることに決めた。だが、それが難しかった。

頭の中に検索をかけた。『ワンピース』も『名探偵コナン』も1話目から凄かったが、1話目で感動までは行かないと思った。物語はいかに読み手の感情を動かすかどうかだ。では1話40ページ前後で人の心を動かす作品ってどんな作品だろう。1作品だけ思いついた。雷句誠氏の『金色のガッシュ』だ。2001年にサンデーで連載を開始したそれは僕には『鋼の錬金術師』以上に衝撃を与えた。1話目を読んだ時に号泣してしまったのだ。今でもあれ以上に1話が完璧な作品はないと考えている。

僕は『金色のガッシュ』1巻を数冊買って、1話を切り取った。そしてそれを1ページずつノートに貼り研究を続けた。さらにその構成を完全にトレースしたラブコメを大高さんに作ってもらうことにした。その結果出来たのが『すもももももも〜地上最強のヨメ〜』だ。そしてついに創刊したガンガンYGに掲載されたその1話は、看板だった藤原カムイ先生の『ロトの紋章〜紋章を継ぐ者たちへ〜』を抑え読者アンケート1位を取った。僕の人生初のアンケート1位だ。


【ヤングガンガン編集部】

ヤングガンガンが創刊された。僕の立ち上げた担当作は中村光の『荒川アンダーザブリッジ』、原田宗典先生の『平成トムソーヤ』を原作にした井田ヒロトの『戦線スパイクヒルズ』、筒井哲也氏の『リセット』『マンホール』、高津カリノ『WORKING!』、そして『すもももももも〜地上最強のヨメ〜』だった。

どの作品も順調だった。『すもも』は常にランキング1位を取っていたし、他の作品もまずまずの人気だった。唯一、『荒川アンダーザブリッジ』は苦戦していたが心配していなかった。いつか世間が気付く日まで淡々と連載を続ければ良い。そもそも中野編集長が中村光を気に入っていたので打ち切りの心配はないだろう。

忙しくも楽しい日々だった。『すもも』は1巻が出てすぐ重版。アニメ化のオファーも来た。他の作品も徐々に人気が上がり、単行本は続々と重版がかかり始めた。編集部にも人が増え始めた。皆、優秀な編集者だった。

中でも現在はLINEマンガで編集長をしている藤田健馬氏を僕はライバルと捉えた。年も近いし、藤田さんが立ち上げた『黒神』は『すもも』の後ろに2位として常に張り付いてきた。この作品には藤田さん以外にも韓国人の担当編集がついた。後に『俺だけレベルアップな件』を日本で展開し、今WEBTOONでトップクラスのスタジオ株式会社レッドセブンの創業者イ・ヒョンソク氏だ。

今ではWEBTOONの第一人者として講演を続ける彼だが、その時は毎夜、歌舞伎町で共にはしゃぐ飲み友達でもあった。なぜか僕とイさんは、すぐに仲良くなった。僕の初めての外国人の友達だ。勉強熱心で作品作りに真摯でユーモアに溢れていた。話が面白い。話が面白い編集者は良い編集者が多い。

さらに、もう一人話が面白い先輩がいた。北村敦氏という編集者だ。若干思想が右寄りで竹島問題なんかでイさんと居酒屋でよく論争をしていた。僕は二人の論争を聞くのが好きで、しょっちゅう3人で飲みに行った。目の前で『朝まで生テレビ』を見ている気分だった。

北村さんはシナリオを自分で書く編集者だった。後に僕がシナリオを書いて担当作家に渡すようになったのは彼の影響だ。彼の代表作には、ダークファンタジーの名作『ユーベルブラット』がある。ちなみに最近でも僕とイさんは飲みに行くことがある。北村さんの話もする。ただ、北村さんはそこにはいない。理由はいつか語る。

藤田さんやイさん、北村さん以外にも、ヒット作を手掛ける編集者は沢山いた。『セキレイ』や『バンブーブレード』『少年探偵犬神ゲル』『死が二人を別つまで』『咲』など、ヤングガンガンから次々とヒット作が生まれた。だが編集部で圧倒的に結果を出している編集者は僕だった。周りからエースだなんだと言われて、僕は調子に乗っていた。ガンガンWING時代に失った自己肯定感、自尊心を取り戻し調子に乗りまくった。


【上がらない給料】

だが、ある日気づいた。僕の給料は入社以来6年間全く上がっていなかった。額面430万ほど。初任給としては高かったが、全く上がっていない。僕の同期に相談した。

僕の同期は二人だけで、そのうちの一人は『黒執事』の担当編集で有名な熊剛くんだ。もちろん優秀な彼だったが、驚愕の事実を知った。熊くんの給料は僕より全然高かったのだ。

人間というのは面白いものだ。あれだけ高まっていた僕の自己肯定感は一瞬で地に落ちた。担当作家はいつの間にか大金持ちになっていた。同期も年収は上がっている。僕は貧乏のままだ。

編集長や部長に猛抗議した。抗議の結果、月給が3万円上がった。が、手当が3万円削られて総支給額は変わらなかった。僕はとにかく上に噛み付く性格だった。まともな社会人教育もされずに現場に投入されたため、目上に対する礼儀や配慮に欠けていた。協調性などの査定が悪かったのだ。ガンガンWING時代に僕の査定は最低になっていた。それはヤングガンガンになっても変わっていなかった。

ガンガンWING、ヤングガンガン、二人の編集長からすれば扱いづらい部下だったのだろう。だが、結果を出す部下だ。もっと上手く使えばいいのにと考えた。今度は中野編集長を恨んだ。ヤングガンガンに呼んでもらった恩はとっくに返したと思っていた。

編集長には編集長なりの苦悩がある事を当時の僕は知らなかった。彼らが味わっていた苦悩を、後にマンガワンの編集長になった僕も味わうのだが。ただ、当時クソガキだった僕にはそんな事はわからない。ただ漫画編集者の査定をどうあるべきか、それはこの頃から考えていたと思う。


【小学館】

僕は転職を決意した。馬鹿馬鹿しくてやってられなくなった。周りの編集者も好きで、作家さんも大切だった。可愛い後輩は入ってくるし、人間関係的には申し分ない。だが編集長も部長も気に食わない。

僕を評価しない会社のもとでは働けないと、さっさと転職先を探した。三大出版社の小学館が中途採用を募集していた。すぐさまエントリーシートを書き、激務の最中に面接を重ねた。面接は僕の特技だ。分かりやすい実績もある。すぐに内定を貰った。年収は1200万ぐらい、つまり突然3倍近くになった。

小学館、集英社、講談社。いわゆる三大出版社の給料が高いのは知っていたが、まさかここまでとは。しかも査定は一切なく給料が保障される。20年勤め上げれば生涯年金も貰える。福利厚生も沢山ある。夢のような環境だ。躊躇いなく辞表を出した。

最初は慰留されたが、小学館の名前を出したら終わった。同じ待遇は出せないのだから。そして貰った6年間勤めた結果である80万円の退職金全額をモルディブ旅行につっこみ、僕のスクエニでの編集生活はハッピーエンドを迎えた。

実は、その時はもう小学館で頑張るつもりはなかった。漫画編集は十分やった。憧れだった水上コテージの上でカクテルを飲みながら、あとは緩い環境でのんびり人生を送ろう、そう考えていた。その後、僕は地獄を味わう事になるのだが・・・


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