『キャラクターを浮き上がらせる』編集ちゃん その10
物語においてキャラクターの重要性は耳にタコができるぐらい聞いていて、どうすればキャラが強くなるか?ということをよく考えている。
でも、いろいろな作品を読んでいると、キャラが決して強くはない作品も数多く存在していることに気づく。
そして、キャラは強くないのに、作中の登場人物の中で印象的に見えることがある。
キャラクターは強くするだけではなく、他の登場人物との対比で浮き上がらせることで立たせることができるんじゃないだろうか。
例えば、三谷幸喜監督作品「ラヂオの時間」
メインキャラクターの一人、作家のみやこはいわゆる普通の人で、真面目でおとなしく、ひたむきで、自己主張は強くない。
対して、他の登場人物は主張が強く、不真面目で、すれていて、業界人っぽく描かれている。サイコパスっぽいとも言えると思う。
このようにキャラクターを配置すると、普通の人の言動が作中では浮いて見えるし、さらに普通の言動を認めたり取り上げたりすることで、観ている人(普通の人)の共感を生んでいる。
その他に、同じキャラクター配置を取っている作品としては、マンガ「カカフカカ/石田拓実」がある。
主人公の亜希は、自分に自信がなく、自己肯定感が低い。
そして、他人のすごいところを褒める一方、「自分なんか全然ダメで・・」と続けがちで、相手をイライラさせることが多い。
対して、周りのキャラクターは自分を持っていて、自己主張が強く、サイコパシーだと思う。
同じようなキャラクターの配置になっている両作品だけど、さらに共通していることは、主人公が怒った時に、キャラクターの立場が入れ替わるということ。
「ラヂオの時間」のみやこは、自分の書いた脚本を、様々な理由で直され続け、ついに激怒してスタジオを破壊する暴挙に出る。
その瞬間、あたふたした周りのキャラクターたちは、普通の道徳感情を持って、普通の言動でみやこをたしなめる。
みやこがサイコパスで周りが普通のキャラになったかのように立場が入れ替わる。
「カカフカカ」の亜希も、セクハラされる時や、他人のだらしない生活が我慢できなくなる時などに激怒するポイントがあって、激怒した時はある種サイコパス感がある振る舞いをし、怒られた側は普通の人キャラになって立場が入れ替わる。
このテーマを書こうと思ってから少し時間が経っている中で、キャラクターの深淵を垣間見ることがあった。
上記のことは方法論の、ごくごく一部のことだと実感している。
キャラクター表現は難しく、生涯をかけて取り組むテーマなんだろう。
だからこそ面白い。