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保守化する学校の記憶へのコミュニケーションアプローチ

廊下に立たされる

 小学校に入学するにあたって不安だったことのひとつに、「廊下に立たされるかも知れない」というのがあった。子どもが重たいバケツをもって廊下に立たされているイメージは、少なくとも日本の文化で育ったある年代以上の人は共通してもっていると思うのだが、実際には自分が廊下に立たされることはなかったし、クラスメイトが廊下に立っているのも目にすることはなかった。そもそも僕の通った小学校は当時まだ新しい校舎で、教室の横に廊下はなく、移動式の棚がとりあえずの境界となって「オープンスペース」というカーペットの空間が広がっていた。

 それでも廊下に立つイメージが頭の中に染みついているのは、『ドラえもん』や『サザエさん』のせいだ。もっとも最近は、廊下に立たせる=体罰という認識が広がり、両アニメでも子どもが廊下に立つシーンは出てこない。とはいえ、のび太の教室もカツオの教室も、厳しい男性の教師が片手に教科書、片手に指示棒かチョークをもって教壇に立ち、子どもは直立不動で教師の質問に答える。当然この教師たちは「アクティブ・ラーニング」なんてしない。

 こうした漫画やアニメ、あるいはテレビの学園ドラマやコントで描かれた学校の姿は、僕たちの学校観を相当支配している。実際はまるい形の教室、流線形の机、あるいは自由なオープンスペースで学んだ人でさえ、「学校の教室の絵を描いてください」といわれたら、四角い教室と四角い机の絵を描くかも知れない。教育の理論も学校の実践も日々アップデートされているのに、社会で再生産される学校観だけがいつまでも昔のままなのだ。

学校観が学校経験を凌駕する

 問題は、この共同幻想ともいえる保守的な学校観が、僕たちの学校経験の記憶をも凌駕してしまうことだ。この記憶の中において、ちょっとユニークな実践をする教師や変わった授業は、あくまで特殊で例外的な経験として追いやられてしまう。

 このことは本質的な教育改革を難しくする要因にもなっている。「学校」「教育」というのはほぼすべての国民が経験していることであるから、「学校」「教育」を語る際は、みんなが自分の経験の記憶を拠りどころにしがちなのだ。ましてやその記憶が、事実以上に社会的な学校観に引っ張られるとすれば、これまでと異なる新しい「学校」「教育」の姿を展望し、社会で共有して合意を得るというのはなかなか困難であろう。

 したがって、前向きな教育政策や学校運営を進めるにあたっては、実際のカリキュラム開発などの事実の形成と同時に、社会で共有された学校観にもアプローチする必要がある。認識へのアプローチというのは、それこそコミュニケーションデザインの領域だ。

学校観の脱構築実践

 まず考えられる方策は、より大衆的なコンテンツにおいて、新しい学校像やバラエティに富んだ教室のイメージを積極的に描くことだろう。それらはオーディエンスの共感を必要とする以上、ストーリーにとっては背景でしかない「学校」の要素をすぐに理解できないものにするのはチャレンジングなことだと思うが、のび太がアクティブ・ラーニングで何かを実現する姿をぜひ見てみたいものだ(と書いたが、僕は藤子・F・不二雄ファンなので多少複雑な心境でもある)。

 一方で学校の中でできる実践もある。たとえば総合的な学習の時間などに、オルタナティブな学校のドキュメンタリーなどを見せて、理想の学校について語り、一部は実験的に自分たちの学校に実装してみるようなワークショップはできるかも知れない。あるいは、別の学校に一定期間「留学」するというのも良いだろう。もちろん国外である必要はない。近くの学校同士でクラスを交換するとか、シェアするとか、学校観を相対化させる仕掛けはいろいろできるはずだ。

 こうしたアクションを僕自身は「学校観の脱構築実践」と呼んでいるのだが、それは「学校」を卒業した親世代を対象にしても可能だし、むしろ教育政策についての合意を考えれば、子どもたちより親の学校観へのアプローチのほうが大事かも知れない。

 僕は一時期、「学校についての私的な記憶」というブログを書いていたのだけれど、たとえばこうした記憶を実際に複数人の間でシェアし、教育学の知見を使いながら解きほぐしていくイベントなどもおもしろい。このような、社会の学校観をアップデートする直接的な取り組みを個人的にはいろいろと試していきたいと思っている。

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