傷をみせあうとき
「商店街の看板見える?」
「ちょうど今看板の下にいます。」
「あ、見えた見えた」
携帯電話を片手に近づいてくる彼女は、1つ年下の大学の後輩だ。長身で顔のパーツがはっきりとした彼女は大学時代の演劇仲間で、一緒の公演に出たこともあった。
たまたま彼女がTwitterで「今晩お酒を飲みたい」とツイートしているのを見た僕は、その日の予定がその直前にキャンセルになったこともあり、少し思い切って彼女に連絡したのだった。
演劇仲間と紹介したが、僕が他人との距離をかなり慎重にはかるタイプだったため、今まで個人的な話をするような機会はほとんどなかった。
演劇の仲間で集まったときに話すくらいなので、恋人の話や今している仕事のこと、どういう経験をしてどういう風に感じて考えて生きてきたか、なんて話はしたことがなかった。たぶん、お互い少し緊張していたと思う。
「とりあえず生で」
なんて確認しあうように一杯目のお酒を注文して、「最近ビールに抵抗なくなったなあ」なんて笑いあううちに、少しずつ空気がほどけていった。
優柔不断な人ならわかると思うが、そういう人同士でご飯を食べるときの注文は少々どんくさい。これもいいね、あれもいいね、なんて言いながら、結局串のおすすめ10本盛りを頼んでみる。メインも店の看板メニューのもつ鍋にしようと決めた。
おしぼりを持ちながら話す彼女の手が少し震えていて、やっぱり緊張していたのかな、と思った。
「そういえばさ、」
まずは彼女との共通の話題を話そうと思い、僕の方から切り出してみた。彼女は時々、カメラが好きな大学の先輩に被写体として写真を撮ってもらっている。その先輩に僕も最近、写真を撮ってもらったのだ。
お気に入りの写真を紹介したり、その時の裏話をしながら、しばらくお互いの写真をみせあってみた。
少し話が深まり、撮ってもらった写真をSNS上で公開することについて話をした。僕たちの意見は、自分の写真を公開することによって承認欲求を満たしてもらおうとはそれほど思っていない、ということで一致した。
恋人との自撮り写真(あるいはメイクをする人にとってのすっぴん写真)のように「私」の部分をみせることに対しては恥ずかしい気持ちが働くが、「公」の姿はある程度自分でコントロールできるので、自分が表現するものとして見せられるというのが理由だ。
「素敵なものを素敵だとシェアして何が悪い」、と僕らは開き直っている。同じ意見を思っている人を見つけて、単純にうれしかった。
プライベートな自分、というところからお互いの恋人について話してみた。なんとなく相手の事情は知っているけど直接話したこと無いね、と少し気恥ずかしくもあったけれど、食事のおいしさとお酒のほてりにつられて僕らは話した。
最近別れた彼女について僕が話せば、「私もその感じ分かります」と彼女が応じる。話題は相手の心の不調にどう向き合うか、というテーマに移っていた。
ここまで触れてはいなかったが、僕も彼女もメンタルを崩して仕事から離れた経験がある。彼女は転職、僕は復職という形で現在は仕事をしている。お互いのメンタルの不調について、どうしようもなさと、それでもどうにかしていかなくてはならない苦しさを話した。
自分にしかその感覚は分からないからつらい。自分のメンタルが苦しいとき恋人に負担をかけることが苦しい。その逆の立場になり、メンタルを崩した相手に怒りは感じないけど、自分の愛情のやり場に困る、という話をした。
性別も年齢も育った環境も違うのに、それぞれのタイミングで、それぞれに同じ痛みや苦しみを味わっていた。僕は日頃「個人と個人は分かり合えない」と考えているが、同情ではなく共感というものは信じてもいいのかも、と人と話しているときにふと思ったりする。
彼女は新卒で入った会社を辞めた後、経済的事情から、休養するのではなくしばらくアルバイトをしなくてはならない時期があった。精神的にも肉体的にも限界の彼女が頼ったのは、大学時代に働いていたアルバイト先だった。その会社は、事情を聞いた後、彼女なら仕事をしっかりしてくれるからと、快く雇ってくれたそうだ。
当時の自分自身のことを「ボロ雑巾」と例えていた彼女は、そんな自分を拾ってくれたアルバイト先には本当に感謝している、と言っていた。
彼女の恋人の話をしていたときに「しまった」と思う場面があった。彼女が恋人とうまくいかない場面の話をしていた時に、同じような経験を自分もしていたからと、僕は自分の話をした。その経験をしたときに自分の場合は別れてしまった、と話した時に、
「うわあ、自分の話で私まで刺さないでくださいよお。」
と言われた。その瞬間僕はヒヤッとした。その日あまりに共感しながら話していたために、いつの間にか、自分の話はわかってもらえると無意識で思って、相手からどう思われるかを考えていなかったからだ。
僕たちは繊細だからこそ当たり前のことに気を付けなくてはいけなかったのだ。
恋人の話のあとは、一緒に出演した最後の公演の話になった。僕はその公演で一生に一度の幸福感と、これからずっと忘れられないであろうトラウマの両方を味わったので、あまり人には話したことのないトラウマの方を、今夜彼女になら話してもいいな、と思って打ち明けてみた。
ある理由から、僕はその公演の2日目から舞台に立つのが怖くなって、本番直前まで楽屋で一人震えていたこと。公演を何とか乗り切り、信頼する演出と話しているときに、自分が我慢していたことに気が付いて涙を流したこと。そういったことを、彼女はうなずきながら聞いてくれた。
「よくその状況で最後までやりましたね」
そう言われて、僕は包み込まれるような温かい感じを味わった。彼女にこの話をしてみてとてもよかったと思った。
その後、公演に対してどういうモチベーションで向かっていたのか。そのモチベーションが生まれるきっかけは何だったのか、などということを僕たちは話した。自分たちでも可笑しくなるくらい似た者同士だということに気が付かされ、一緒にご飯に行けたことをうれしく感じた。
似た者同士は傷をみせあうものなのかもしれない。そう気が付いたのは翌日のことだった。友人に何気なく前日の話をしていた時に、自分の話した内容は自分の傷口だったんだなあ、と悟った。
自分の傷をみせ、相手の傷をみて、こんなに自分たちは違う人間なのに、もしかしたら共感することによって少しだけ分かり合えるのかもしれないと思わされ、和まされてしまうのかも知れないと思った。
人が抱えている傷口というのはたいていグロテスクだ。なかなか他人に見せたいものではない。自分でのぞき込むのにも一苦労なのに、同じ傷を持っている他人を見つけると不思議と見せあえるのはどういう仕組みなのだろうか。
それには、傷をもっている自分をこの人なら認めてくれる、という第六感が働くのかもしれない。親しみを持った人に自分を認めてもらえることは人生の喜びの中の一つだからだ。同じような経験をしてきた人間とは、お互いよく頑張ったね、と称えあう関係を望むのかもしれない。
多くの言葉はいらない。ただ、自分と似たにおいのする人が日常を歩んでいるという事実に、癒されるのだ。
「今日ほどTwitterやっててよかったと思う日はなかったです。また気軽に誘ってください。」
「うん、軽率に誘うね。」
別れたあと、さわやかにうれしいメッセージをくれた彼女に、僕は照れ隠しで冗談交じりに返した。
あの夜僕らは、大学の先輩後輩として待ち合わせをした。その後ご飯を食べながら互いの傷をみせあい、なんだか不思議なつながりが生まれてしまった。だからあの夜、僕たちの間柄は先輩後輩から友だちへとするりと変化したともいえる。
けれど同時に、そのつながりは友だちなんていう枠からはずいぶんはみ出しているように感じる。このつながりを上手に表すことができる言葉がなくて僕は戸惑う。
こういう時、言葉はなんて不自由なのだろうか。
とにかく僕は、こういう関係こそとてもたいせつにしなくては、と思う。
傷をみせあいそれを称えあうとき、僕たちはとても癒されるのだから。
素直に書きます。出会った人やものが、自分の人生からどう見えるのかを記録しています。