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なめらかな曲線が美しい理由を考える

やっぱりデジタルってアナログにかなわないな、と思う瞬間があります。


そう書き出してから、デジタルとアナログの辞書の定義が気になって調べてみたのですが、なんとなく納得できなかったので自分なりに定義してみました。

デジタル 連続的な物事をある単位で区切って表現すること
アナログ 連続的な物事を連続的なまま表現すること

これがいまのところ自分が納得できる定義です。

なんだか変なはじまり方になってしまったので、もう一度最初からやり直します。



やっぱりデジタルってアナログにかなわないな、と思う瞬間があります。


たとえば時計。

そもそも時間という考え方は太陽が昇って沈む様子や、惑星との位置関係の周期といった現実の動きをもとにしています。もちろん「一日」や「一秒」などと単位に区切ってデジタルに表現できるものですが、その成り立ちからすると、滑らかに進んでいくアナログな現象から作られたもの、ということができると思います。

もちろん区切ること自体は出来るので、デジタルとして表現することは可能で、単位を細かくしてデジタルをアナログに近づけることはできます。でもそれだったらアナログでいいじゃん、と感じてしまいます。

デジタル化して区切った方がわかり易くて、比較するときに便利なのはわかります。だからそういう時はデジタルな時計を使えばいいと思います。

でも、「今」という流れていく時間を正確に表現しているのは、その瞬間が何年何月何日何時何分何秒の点かを教えてくれる時計よりも、カチッカチッと一秒ずつ刻む時計よりも、一点に止まることなく滑らかに回る時計だと思うのです。


ドラマ、という現実を人の手で生み出してしまうフィクションの一形態も、このデジタルとアナログを考える文章に登場する例として面白いと思います。

ドラマとは、技術的な側面からみると、あるシチュエーションにおいて適切な表現を、俳優の演技や演出、照明・音響、CGなどの制限の中で行うこと、と言い換えることが出来ます。

そう考えると、この制限という部分は分解してデジタル化することができます。ある感情を抱いていることが周りからはっきりとわかる顔や体の表現、その表現の統一感を追求する方針を示す演出、その顔や身体が最も映える光量と色彩を選択する照明、その雰囲気に最も合った音楽を選択する音響、対象が非現実なものならそれを表現するCG技術、そういったものがデジタルに区切られてその制約内の最適解が探られます。

それらを結集したフィクションという空間は現実よりも理想的だと感じられることもしばしあります。

けれども日常という、照明も音響もない、洗練された言葉が交わされるわけでもないただ進んでいくアナログな空間で、時にあっさりとその理想を超えるものが出てきてしまう瞬間があります。こういう瞬間に、演技というものがリアルさを求めて行われる限り、現実というリアルさそのものに決してかなわないと思ってしまうことがあるのです。

だから、演技であることを忘れさせるか、その人自身の生き様をそのまま演技という名前を借りて出すということが出来ると、「いい俳優」と呼ばれる気がします。それは、俳優自身と役が連続した状態で存在している、つまりアナログな演技をしているからです。


デジタルの方がわかり易く、はっきりしています。あるものを区切り、停止させた状態で最適なものを表現できるからです。

けれども、アナログの方が広がりと深みがあり、リアルで正確です。滑らかで混沌としているけれども、それを現実と呼んでいるから生身でそれを味わわされ、感情を揺さぶられてしまうのです。

どちらがいいか、というような議論にはあまり意味がありません。しかし、私たちは現実世界に生きてそれをリアルと呼んでしまっているのでアナログ側に加担してしまっています。

だから、デジタルがリアルさや正確さを追求しようとした瞬間に、アナログな世界の特徴が認識され、評価されるのだと思います。


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素直に書きます。出会った人やものが、自分の人生からどう見えるのかを記録しています。