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矛盾は、矛盾している、という点で矛盾していないということ

かなり難解でかたい文章です。

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矛盾、という言葉は中国の故事から生まれた言葉だ。別に英語でcontradictionと言い換えてもいい。同じことを別の言葉で言っているだけだ。自分にわかりやすい言葉に読み替えて読んでくれればいい。チルチルとミチルが、幸せ(青い鳥)はどこかにあると求めるうちには見つけられず、そこにあると気づいた途端見つけられることと同じことを僕は言っている。

話がそれた。矛盾は、「どんな盾も破る矛」と「どんな矛も防ぐ盾」を売る商人がその両者をぶつけるとどうなるか、と質問され答えられなかったという話である。初めて読んだ後のモヤモヤ感は凄まじかった。当たり前のことなのに何が言いたいのか全くわからないし、何のためにただでさえ面倒な授業でこんな無意味な話を読まなければいけないのか、と苛立った。

そんな当時の自分に今なら、完璧な回答ができる。矛盾、という話は世界の全てを表している、と言いたい。

矛盾という話は、商人が答えられない、つまり人には答えることができない話だ。全ての話にオチを求める人にとっては、この当たり前のことを言っている文章はつまらないにもほどがある。しかし、教科書に載っていることからもわかるように、この文章は繰り返し繰り返し読まれている、「超面白い」文章の1つだ。この構造もまた矛盾だ。人は言葉を使って何かを言うと、その言葉で表現できる部分の外側を説明できなくなってしまう。けれども、言葉を使わないと何も伝えられなくなってしまう。何か枠を当てはめるとその枠からはみ出るものを新たな枠を使って表現しなければいけなくなる。その行為は無限であり、終わりはない。これも矛盾だ。

ものとものとの間が大きければ大きいほど人は感情を動かされるが、あまりにその間が離れすぎると、当たり前のことという間が極限まで詰まった感情の全く動かない状態になってしまう。お気付きの通り、これも矛盾だ。

生まれたばかりの赤ん坊は、生と言うものを象徴する存在なのに、自分で考える能力が極めて低く、身体的にも未発達であるので、最も死に近い状態だ。一方、最も死に近い病人や老人は、最も死に近づいているのに、自分が生きていると言う一点に集中できるようになり、生に極限まで切り詰めて近づく状態になる。そろそろ飽きてきたかもしれないが、これもまた矛盾だ。

人間は、思考という半永久的に継続することのできる能力を持っている。つまり、何かを仮定するとその仮定に基づく仮定が成り立ち、その繰り返しで、さらに大きな仮定をすることができる、という状態になる。何か一点に向かっているはずなのにその距離は無限大なので、その一点には思考が持続する限り半永久的に到達できない。

死にたい人は考える、なぜ私は生きているのか、と。しかし、その人が生きている、という事実のみでそのことは回答できてしまう。その人が死んでいない理由が今生きているから、ということの裏側(同じこと)だからだ。

戦争を無くしたい人は考える、なぜ戦争はなくならないのか、と。しかし、世の中に戦争がある、という事実のみでそのことは回答できてしまう。戦争があることの理由が戦争を終わらせようと戦い続けるから、ということの裏側(同じこと)だからだ。

究極的(無限/半永久的/可視)なものを仮定として究極の反対の究極的(有限/反半永久的/不可視)なものを考えることはできる。数学における無限や虚数の概念、宗教における絶対的な神の存在や空の観念。全てこれに当たる。仮定することによって、思考という半永久的なものをある一点に向かって行うことができる。

何かに秀でた人はこれを意識/無意識的に行なっている人たちのことだ。大金持ちは、金を無限に集めるという半永久的な活動を、個人の資産や会社の規模などに落とし込んで最適な行動を繰り返している人たちだ。学問を行うものは、問いに対する思考という半永久的活動を、問いに答えが出るという仮定を立てて行なっている。宗教者たちは、あらゆる問いに対しての半永久的な活動の理由を、絶対的な存在や非存在という仮定を立てて説明している。

世の中の本当に全てのものはこういう風に矛盾に対して、ある仮定を立てて成り立っている。僕自身も、どうやら存在しているらしい肉体で、どうやら食事を食べて眠らないと死んでしまうようなので、どうやらドーパミンやアドレナリンが出ると楽しく長生きできそうなので、文章を書くという自分がおそらく楽しいと感じそうなことを今している。存在しているかはわからないし、いきなり不老不死不眠不休で働けるようになるかもしれないし、ドーパミンやアドレナリンがいきなり苦痛にしか感じない物質に変化するかもしれないのに、文章よりももっと楽しいことがあるかもしれないのに、している。

半永久的な思考にハマった途端、人は壊れる。人は楽しくなりすぎてご飯を食べ忘れ健康を損なう/なぜ生きるのかと考えすぎてうつ病になる/仕事が楽しすぎて死んだら楽しめないのに体を壊してでも仕事を続けようとする/紙幣を増やして物に払える値段を増やそうとして行う増刷で起きるインフレの結果、貨幣の価値をより下げることとなる/友との友情の価値を無限化した結果、自分の肉体を死に晒してメロスは走る。人間は半永久的な思考、つまり矛盾に向き合った時、その半永久性に対してそれを否定しようとすると、思考のために肉体や精神を犠牲にしてしまうのだ。

物事の矛盾(半永久性)に向き合うとすぐに壊れてしまう人間は、それでもなぜ生きていられるのだろうか。人間が生み出した便利な言葉がそれを表している。考えても考えても答えが出ない時に出る言葉だ。

「仕方ない」

そう、答えがないことは考えても仕方がないのだ。この言葉で物事のどうしようもない半永久性に一旦小休止をはさみ、肉体や精神をなんとか壊れないように保っている。そして目の前にある状況を受け入れ、その状況という確からしい仮定(より半永久性を疑いづらいこと)をもとに生きていく。

だから、矛盾は矛盾している、という一点のみで矛盾していない。

そして、その矛盾していない、ということが矛盾していないとは言い切れない、ということでこの矛盾をテーマにした文章を一応結論めいたものを導いて終えることができる。


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難しい、抽象的でわかりづらい、という人は具体化していくと全てその仕組みであることがわかります。(もちろん、その仕組みである、と言い切るとその仕組みでない可能性が顔をのぞかせるわけですが、これもこの仕組みの中に存在している訳で、けれどもこと仕組みに存在していることの外側の存在もある訳で…、以下略。)要するにメビウスの輪です。階段をぐるぐる回り続けるだまし絵です。

基本的に僕の文章はこのどうしようもない矛盾に向き合う時の心の動き(喜怒哀楽等、無限のグラデーションをもつ心の動き)を、自分という一番確からしい存在というフィルターを通じて、繰り返し繰り返し伝えていることになります。いずれ、僕が文章を書いているわけ、という文章を書く予定ですが、文章を書かずに済めばいいのに、と思いながら同時に、最高に文章を書くことを楽しんで書いていることをここに記しておきます。

ややこしい話に最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

素直に書きます。出会った人やものが、自分の人生からどう見えるのかを記録しています。