棚田じじいとして生きる|佐渡の米農家
<話し手>
新潟県佐渡市 岩首
岩首昇竜棚田 大石惣一郎
新潟から佐渡汽船に乗り、海を渡った先にある佐渡島(さどがしま)。島の主要な港、両津港と小木港のどちらからも車で50分程度の岩首(いわくび)と呼ばれる土地で、棚田じじいは米を作っている。
昔、両親がやっていた棚田を継ぐのが嫌で仕方なくて、一度東京に逃げ出したんだ。農業は辛いし、金にならないし、かっこ悪いと思っていたからな。それから色々あって32歳で佐渡島に戻ってきたとき、佐渡の棚田が、自分が逃げ出した頃に比べて随分と酷い状況になっていたんだ。高齢者ばかりで後継者もおらず、年金をつぎ込んでなんとか維持している人までいた。
棚田は佐渡の原風景なんだ。その棚田を維持する人たちが、ここで生計を立てて行くためには、お役所やら他の産業やらメディアやら、巻き込めるものはみんな巻き込んで、アピールしていくしかないと思った。そう決意してからは、農業は辛いこともあるけれど、楽しみながらいろんな人と出会って、棚田のことを伝えるいろんな活動をさせてもらうようになったんだ。
なぜあんなに嫌だった棚田での農業を継いだのかというと、母がいつも言ってくれた「お前にはお前の人生があるから、好きなことをやればいいよ」という言葉が大きかった。母は子どもに農業を継がせようなんて一つも思ってなくて、好きなことを目一杯やって生きてほしいと思っていた。だから、じじいも好きなように生きてきて、そうして戻ってこれたんだ。
父も母も親戚筋からの養子として岩首にやってきた。当時は戦争の真っ只中で、両親の前にも養子がいたけど、ガダルカナルで戦死したそうだ。
戦後になり、父は自分のやりたいことをやるために、母を置いて単身上京。東京教育大学(現在の筑波大学)に通い、じじいが生まれた頃には高校教師になっていて、異動で新潟県内を転々としていた。母はそんな父のことを悪く言ったことはなかった。じじいは片親育ちでいじめを受けて、中学校まで登校拒否のいじめられっ子だった。「うちを守るため」と言って棚田で農業を続けていた母は、一日で草履がぼろぼろになるまで働き、夜は新しい草履を編みながら、「疲れた」「農業は食えない」と毎日こぼしていた。その頃は何もかもが嫌で、じじいは高校を出てすぐ東京に飛び出した。
それから15年間東京で暮らした。ISSEY MIYAKEの影響を受けて美容関係の専門学校に通い、仕事をしながら東京生まれのパートナーと出会った。母にも「東京に来い」と言っていたけど、結局来ることはなかったな。そのうち子どもが生まれて、母も70歳になっていた。母の老後も心配だし、東京での人付き合いにも疲れてきた頃だったから、住所を佐渡島に移して、東京から佐渡島に通うようになった。その頃、JAの臨時職員などの仕事の誘いもあったけど、組織は苦手だし、何よりも母が70年も頑張ってきて、この土地の人を400年も生かし続けてきた棚田を、なんとか守りながら食っていけないかなと考えるようになった。ここで暮らしながら働くことができたら、母とも、妻と子どもとも一緒にいられる。そうしてじじいは35歳のときに岩首の棚田を継いだ。
棚田のことを深く知ると、山を無理に切り拓いたところがなくて、自然と共存する先人たちの知恵に驚かされることばかりだ。田んぼは一枚ずつ山の等高線に沿った形をしていて、元の山の形を残しているから崩れにくい。機械を使って基盤整備をして盛り土をしたら、雪の重みで地滑りを起こしたという事例があるけれど、古くから受け継がれた棚田にはダムとしての効果もあって、ふもとの集落を地滑りの被害から守ってくれる。ここは、昭和60年頃に基盤整備をやった技術担当者が「昔の地形が等高線上に残されているから、道を作る程度にしてなるべく手をつけずにおくべきだ」という考えの人で、変形田が今もそのままの形で残されている。
でも、作業をするには無茶苦茶大変。できるところは歩行用の田植え機を使っているけど、機械は直線にしか進まないから、人の手を入れなければならないところがたくさんある。歩行用の田植え機は、今ではメーカーもほぼ作っていないな。
棚田を継いだ頃、「岩首出身です」と言うと、佐渡の人にも「どこですか」と聞かれるほど、岩首は知られていない状態だった。母が守り、400年前の先人たちが築いた棚田を、この先も残していくには、「岩首といえばこれ」と言ってもらえるものがなければならないと思った。
ここに住んでいる人たちには、ここの価値がよくわからないんだ。ここで生まれ育って苦労してきた辛さはよくわかる。ここには何もない。でも、青い海がある。棚田に注がれる山の清流がある。滝がある。じじいの好きな落葉広葉樹の里山がある。全部、ここに来て棚田を手伝ってくれる学生たちが教えてくれた。
学生たちが初めて来たのは、全国で森林づくりの体験プログラムを行っているNPO法人樹恩ネットワークの『トキの島 森林の楽校(もりのがっこう)』が始まった頃だった。佐渡市立岩首小学校が廃校になってからは、旧小学校が地域おこし協力隊や学生団体・サークルを受け入れる『岩首談義所』という拠点になり、たくさんの人が訪れるようになった。
『岩首昇竜棚田』という名前も学生がつけてくれた。ふもとの集落から棚田を眺めると、竜が空へと昇るように見えるのが名前の由来だ。女子大生にとってここの風景は「エモい!」らしい。継いだばかりの頃は「こんなところに人なんて来ない」と言われたのに、今では多いときは一日30〜40台の観光の車が棚田を登ってくるようになった。アウトドアブランドの『snow peak』の取り組み、『LOCAL WEAR TOURISM in SADO』の開催地にもなって、新作ウェアのモデルにじじいを起用してもらったこともある。
いつか、学生団体を受け入れた後、「改めてお礼がしたい」と言う早稲田の学生に「来るな」と言ったことがある。棚田の存続は大変なことで、学生にできることなんてない。それよりも「いいところだった」という思いを東京に持ち帰って、佐渡島と、岩首と、変な棚田のじじいのことを「いいところだ、面白かった」といろんな人に伝えてほしい。それが十分恩返しになっているよ。
思いだけでここまでやってきた。いろんな人に支えてもらった。でも、もっと支えを必要としている。この岩首昇竜棚田から、いろんな恩を巡らせていきたい。そして、100年後の子ども達にも、この環境と景観、棚田のじじいの生き様を伝えていきたい。
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<編集後記>
米と米のまわりを伝える活動をスタートして、最初に出会ったのが、大石さんこと「棚田じじい」でした。右も左もわからず、米と米のまわりのことが知りたいという気持ちだけで向かった岩首昇竜棚田への道のりは、海と山の斜面に挟まれた細い一車線道路。対向車が来ないかとヒヤヒヤしながら、30分ほど遅れて到着した私たちを、ちょうど学生たちと草刈りをしていた「棚田じじい」は少し注意して、その後は力強く受け止めてくれました。
その時聞いた話や、「棚田じじい」の人や米作りに対する姿勢が、この活動の原点になっています。自分の世代ではなく、100年後を見据えた米作り。日本の米作りが続いていく原点には、米に携わる人たちの姿勢があります。
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