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『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』 悪のカリスマなんか存在しないから、ただの犯罪者だから、犯罪者の最期はこういうことだから、とひたすら訴える犯罪抑止映画

『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』(2024年/トッド・フィリップス)

【あらすじ】
悪いことをしたので裁かれる

誠実で覚悟のある映画だと感じた。全く嫌悪感は抱かないけれど、このビッグバジェットでこの構造、ヒットするはずがない……。

でも、作品のヒットとか観客の欲求とかを全て放棄して、同じ監督同じキャストで「作らなければけじめがつかなかった」作品、挑戦として漏れなく成功していると感じた。

一先ず、「ジョーカーは俺だ」なんて言っちゃうワナビーに対して、「絶対に犯罪なんかしちゃダメだよ」と心から訴えかけていて、これを観て、俺も全部ぶっ壊してやる!と思うような人はいないと思う。

犯罪抑止映画。

そして、続編映画としては相当興味深い試みをしていて「続編やってんなー」と納得できた。まるで、『エクソシスト』のラストのカタルシスを全て台無しにするような暗黒の続編『エクソシスト3』のような。

前作と本作でちゃんとコインの表と裏になっているし、結局ジョーカーの物語ではなくて、ジョーカーとして祭り上げられたアーサーの物語としては見事に完結している。

法廷にてカメラ目線で確信的な吐露をするホアキンのショットは、文字通り「誰もジョーカーなんかにはなれない、単なる犯罪者になるだけだ」とファナティックな観客に訴えかけている。

レディ・ガガが演じるリーがアーサー以上に狂っていて、そして果てしなく謎めいていて、しかし決して彼女のキャラクターを描き切るだけの尺が配分されていないのが勿体ない。このストーリーには必要不可欠な"異性"であることは間違いないのだが。
"Gonna Build a Mountain"を熱唱するガガは流石に上手い。上手いけど、このワンマンショーの時間は何だ……とも思わなくもない。
ガガ版"Close To You"は曲の配置も含めてめちゃくちゃ良かった。
(ホアキンもガガも本当は歌が上手いのに、敢えて下手っぴに凡人っぽく歌っているのも良かった。それなのに日本の観客の多くが「ホアキン歌上手い!」とか言ってて、なんでやねん……テキトーなこと言うなや……と感じた)

脇を固めるブレンダン・グリーソンは終始うまかったなー。アーサーをど突くアクションなんか、あれ一発、動作一発で感情を表現できてる。
あとキャサリン・キーナーもめちゃくちゃ良かった。
トッド・フィリップスはコメディの頃からちゃんとキャラクター描写も配置も出来ていて信頼できる(だからハーレイ・クインの描写も、ハーレイとジョーカーのクレイジーラブを欲求した観客に対するアンチテーゼなのかもしれない)。

敢えて間のびするように、敢えて退屈するように演出されている、つまりアンチカタルシスの作法で撮られているものの、それ自体が作品単体の評価には影響しない丁寧さがある。むしろ、これをカタルシスマシマシで撮ってしまうことの方が、よほど作家としては愚行に他ならないわけで。
「映画が面白くないこと」と「面白くならないように映画を撮ること」は異なる。

絶えずストレスフルな本編の幕引きに、しっかりと整合性のある最大のストレスを配置してサヨナラ〜とする辺りも信頼できる。
そして、この映画が巷で騒がれているほど過激で、コントロバーシャルな映画でもないことは作品自らが表明しているような気もする。トッド・フィリップスの視線は極めてシニカルで、これは近年では北野武の『首』にも通じるような、観察眼的な思考なのではないだろうか。
そういった意味では、ここまで構造的に「観客」の存在を必要としたハリウッド映画も珍しいのかもしれない。

期待と違ったものが出てきたときに激怒するよりは、期待と違ったものが出てきたときこそ喜んでたくさん考える派です。
(そりゃあ自分だってジョーカーとハーレイの『ナチュラル・ボーン・キラーズ』や『ボニー&クライド』が観たかったけども!)

スコセッシオマージュから遠く離れて、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』の手法で『バンド・ワゴン』から『ネットワーク』へ行き着く感じ。前作よりもシドニー・ルメット味が若干あるのかも?あとは完全に『ファウスト』の構造を借りていて、ファウストがアーサーだとして、メフィストフェレスは、グレートヒェンは誰なのか、なんて考えて観ると、かなり面白いアプローチはしているはずです。

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