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『リトル・ミス・サンシャイン』 いくつになっても、いつになっても、どんな映画でも好きになれます宣言

『リトル・ミス・サンシャイン』(2006年/ジョナサン・デイトン、ヴァレリー・ファレス)

【あらすじ】
娘のために家族でミスコンへ向かう

初めて観たのは学生時代の英語の授業で、当時最高にひねくれていた自分は、この手の「お涙頂戴ハートフルファミリームービー」みたいな作品に対して明確に偏見を抱いていた(他にも「オシャレなミニシアター系ムービー」も。『アメリ』とかミシェル・ゴンドリーとか)。で、授業で観たけど「ま、俺には関係ない映画だね。家帰ってデヴィッド・リンチ観よ」と鼻くそをほじる最低のカッコつけ野郎で、つまり内容をほとんど憶えていなかった(憶えようとしていなかった)。
もちろん、偏見はその後徐々に治療されていくに至り、カッコつけはカッコ悪いと気付き、今はより素直に映画と対話できるようになった。本当は可愛い映画は大好きだし。

さて、ひねくれ時期以来に再見した。超いい映画!最高!!大好き!!

本作は所謂お涙頂戴モノなんかではなく、極めてシニカルで冷静な目線の映画だ。なぜなら、彼らの抱える問題は作劇的な「ウソ」によって払拭されたりはしない。各々が問題を、己の胸に抱え続けている。
空中分解寸前の家族が「一同で車を押さないと動かせない」というアクションがもうそのまんまで、このテーマは全編に一貫している。動かない車を動かすことのできる動力としての家族。それはラストシーンでも顕著で、この家族の様々な問題は解決されていないし、何なら状況は出発時よりも悪くなっているのだけれど、それでも、皆で車を押して動かす。車は走る。別に晴天の青空なんかじゃない。それでもとにかく、家へと帰るのだ。停滞よりも動き続けることを習得した家族は、ほんのちょっとだけ以前よりも上手く「動きそう」な予感が観客には分かる。
抱える問題に自暴自棄になって自滅したり、その自滅願望で家庭を巻き添えにする必要なんかない。問題のない人なんていない。全員が「負け犬」みたいなものだけれど、挑戦することをやめない限り、人は負け犬にはならない。

僅かな出演時間で強烈な印象を残すアラン・アーキンの最後の言葉は、映画全体に対する遺言として機能して、その言葉は家族を再起/再帰させる。

オリーヴちゃんを中心に家族が動かざるを得なくなる構成も見事で、原因にも結果にも彼女が癒着している美しさが泣ける。
罪なき純心の願いのために、罪を重ねてきた、間違えてきてしまった大人たちが徐々に同じ方向へと心を一つにしていく作劇は、クライマックスで全力疾走する車、から降りて全力疾走するスティーヴ・カレルの姿で極点に達する。エモすぎるじゃんか。

ところがこの映画が凄いのは、その後のミスコン(出場者のガキんちょたちが全員バービー人形みたいでクソ怖い)において、ある人が「踊り出す瞬間」を撮っている点で、ここの「あ!動き続けていた映画が迎えるべきゴールについに達した!」というエモーションが凄すぎる。
勝つことにこだわり続けてきた人間が、自ら負けを選ぶことによって「勝利」すること。果てしなく美しい敗北のダンスは、呪いからの解放の舞いのようだ。
その際の家族の笑顔はもちろんのこと、オリーヴちゃんの太陽のようにまぶしく輝く笑顔が素晴らしい。この瞬間、彼女は「リトル・ミス・サンシャイン」と化す。小さな太陽が照らした先に見えたのは、紛れもなく「家族」そのものだった。

個人的に好きな俳優しか出ていないというのも眼福で、特に自殺未遂の哲学者・フランクを演じたスティーヴ・カレルは本当にうまい。やがての『フォックスキャッチャー』に繋がるシニカルさ、時折見せる人間味、ポール・ダノに寄り添う兄貴/先輩感、どれを取っても良かった。
そのポール・ダノがちくしょー!と大暴れするシークエンスは、その顛末のさりげなさも含めて泣いてしまった。自分にも妹がいるので、ああいった感覚はよく分かる。
アラン・アーキンはエロじじいから一転、孫の前ではクソ優しいおじいちゃんとなってオリーヴちゃんを慰める、あんなのズルいだろ。
オリーヴちゃんを演じたアビゲイル・ブレスリンは大変良い方向性で成長致しました。留守電聞いて「ギャーーーーーーーーーー!!!!」と絶叫していた彼女が、今やエマ・ストーンの妹となってゾンビ退治。応援し続けます。

監督のジョナサン・デイトンとヴァレリー・ファレスは、よく考えたらつまらない映画は一本も撮っていない大好きな監督たちだったので猛省。『ルビー・スパークス』にはポール・ダノ、『バトル・オブ・セクシーズ』にはスティーヴ・カレルがキャスティングされているのも線で観ると楽しいね。

脚本のマイケル・アーントは『トイ・ストーリー3』も書いてるし、『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』でエイブラムス、カスダンと共に脚本書いた人。高畑勲ファンで、もう脚本なんか書きたくないとスランプの時に『ホーホケキョとなりの山田くん』を観て、映画ってなんでもしていいんだ!俺もやるぞ!と復活できたらしい。つまり、高畑勲がいなければ『リトル・ミス・サンシャイン』は無かったのだ!いい話。

死体を乗せた車がバカ怖え警官に停められるシーン、本当にドキドキして、えーっどうなっちゃうのこれーーいやだよーーぴえーんと心臓バクバクさせながら観てしまった。偏見を抱いてカッコつけていた時とは大違い。いつになっても、いくつになっても、自分次第でどんな映画も楽しめるのだ。

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