同じものを見ているのに分かり合えないのは、見え方が違うから
同じものを見ていても、見え方は全然違う。解像度が違う。話が噛み合わない。
娘が机に座って、公文の宿題にとりくんでいる。
「ちょっと来てみてよ」
「ん?割り算?割り算がどうしたの?」
先月くらいから、割り算をやっているのを知っているので特に目新しくもない。娘の方も、私がそれを把握してることはわかっているはずだから、割り算の問題が解けることをわざわざアピールするとは思えない。どこに注目して欲しいのだろうか。
「ほら、こーれ」「ん?」
ちょっといらだたしげになる娘。見て欲しい箇所を指差すものの、それでも分からない。
「もー」
先月のプリントを見せてきた。それは、やはり割り算だ。わたしの認識どおりで、先月から割り算をしていた。何も変わらないじゃないか。
よーく違いを比べてみる。
あー、なるほど!見比べて横にして初めてわかった。割り算の商(答え)が1桁から2桁に増えたのだった。割り算の演算が1回から2回に増えることになるから、計算式が縦に伸びて、確かに難しくなっている。娘にしてみれば、この違いは、アピールしたくなるほどのものなのだろう。娘にとっては、割り算とは一桁であることが”普通”であって”常識”だった。それが、”二桁”もありえる、というのが驚きだったのかも知れない。
大人の解像度では、商が2桁でも1桁でも「割り算」にしか見えない。子供の解像度でみると、「商が2桁の割り算」と「商が1桁の割り算」の2種類があるのだ。
同じものを見ているからといって、同じようには見ていない。分かり合うためには、最初に、本当に見えているものが同じかどうかをよく確認する必要がありそうだ。
そのためには、自分に見えている世界をできるだけ詳細に表現できないといけないし、相手が見ている世界について具体的に知ろうとする努力が必要になる。