3.11 あのとき僕は東京ビックサイトに居た
「3.11」は忘れてはならない教訓を多数私たちに遺してくれました。
そして改めて犠牲となられた2万人を超える一人ひとりに、またご家族に心から哀悼の意を表します。
あれから10年となりましたが、本当に教訓は生かされているのでしょうか?
私の地震体験
東京ビッグサイトの天井ライトが大きく揺れガチャガチャ音がして、尋常じゃない揺れに恐怖して、展示場内からダッシュで非常口へ向かいました。
外に出ても搬入口の大きなシャッターや停車してあるトラックのユニッククレーンの鉤が大きく振れて怖いのなんのって、近くにいた欧米人の方は恐怖で叫んで泣き出すほどに激しい揺れは続いたのです。
さらに近隣のビルから黒煙が上がったことで、大地震と頭っではわかっていても、それ以上の何かが起きたのではないかとプチパニック!
ボーイスカウト経験から、食料と水をコンビニで確保してから、近くにいる人と情報交換をはじめたら、「ゆりかもめ」「りんかい線」共に止まっている事が判明し、お台場が陸の孤島になったことを知りました。
初代スマホXperiaは早々に電池欠乏
2011年初頭は「Apple iPhone4」が2010年に登場し、スマートフォン持ってるのがカッコいい時期でして、私も「エ糞ペリア」の悪名も高い「SONY Xperia SO-01B(Android1.6)」を愛機にしていました。
当時はまともに使えるアプリはまだ少なく、2010年4月にスタートしたインターネットラジオ「radiko」アプリをダウンロードして情報収集始めたら電池欠乏で慌てました(当時モバイルバッテリーは無い)。
バッテリーは残り僅か、通信輻輳により電話も稀にしかつながらない状況になり、災害時の通信手段の確保の重要性を痛感することになりました。
余談ですが、「LINE」は東日本大震災の通信障害の教訓から2011年6月にリリースされています。
ホテル帰還、翌日は浅草観光へ
多くの方が歩いてレインボーブリッジを渡り、近隣のホテルロビーや施設で一夜を明かしましたが、我々は辛うじて動いていた都営バスに気が付き長時間並んだ末に、ホテルに帰還することが出来ました。
ホテルはエレベーターが動かない程度で、晩御飯も近隣の居酒屋が営業していたので困ることはありませんでした。
翌日は生田マネージャーと二人で、大渋滞する都内を車で移動して建設中だった東京スカイツリーや浅草寺を観光してソバまで食べてから帰途につきました。
ニュースで津波に襲われる東北地方の映像を見ているのにも関わらず、呆れた話ですが、震災の翌日は危機感なかったのが正直な話です。
帰途について、東名高速の東京行き車線は消防車などの緊急車両ばかり、さらに福島第一原発の爆発シーンをTVで見て、ノンビリ浅草観光していた自分たちが如何に危機感無く、馬鹿な行動をしていた事を知った次第です。
今も災害に備えていますか?
交通機関の停止、輻輳による通信障害、津波による重要データを喪失、その後の輪番停電など、東日本大震災は企業経営に大きな教訓を残しました。
コムデックでは以下の対策を実施していますが、これでもまだ不安なのが正直な気持ちです。
① 事業継続性(BCP)‥クラウド化によるデータ東西日本レベルのデータ分散
② 電力の確保‥ガスボンベ発電機、大型バッテリーの常備
③ 従業員の帰宅支援‥数日分の水、食料、調理器具の常備
④ 連絡網の確保‥LINEWORKS
弊社が対策を続けて居られるのは、東北の方の苦労と比べれば1%にも満たない話ではありますが、東京で東日本大震災を経験したことが根底にあると改めて気が付きました。
最後に
寒空の下で、いつ来るかわからない都営バス「東京駅行」を生田マネージャーや社員と長時間待ったことはいまでも忘れられません。
東日本大震災の遺した教訓を自分なりに解釈し、自分に出来ることは続けていきたいと思った「3.11」の朝でした。